【第924回】 気を知り、気をつかうために

合気道の稽古は、主に相対で相手に技を掛け、相手の受けを取ってを繰り返していく。初心者の頃は技の形や動きがよく分からないし、指導者の示す形や動きがよく見えないので、それを受けで覚えることになるから受けは大事であるが、段々と技を掛ける方に力点が移っていく。そして受けの相手を投げたり、決めたりすれば満足ということになってくる。
これは稽古人のほぼすべてが辿る道であろう。そして技(形)を覚え、力をつけ合気の体をつくっていくのである。ここまでが所謂、魄の稽古である。

ここまでは誰でも問題なくやれる。問題は魄の次元の稽古から次の次元の稽古に移る事である。勿論、魄の次元の稽古のままでいいという稽古人もいるだろう。それは本人次第であるから私が関与することではないが、敢えて云えば、次の次元に移った方がいいのである。何故なら、ほとんどの合気道の入門者は、魄の次元の合気道を目指していたのではなく、それよりも高みにある武道を求め、夢みて入門したはずであるからである。その夢を諦めれば後で必ず後悔するはずである。更に、魄の合気道の次元に留まっているとほぼ必ず体を壊すことである。膝が痛いとか腰が痛いなどである。故に、魄の稽古をある程度満喫したら、次の次元の稽古に移るようにすべきだろう。

それでは次の次元の稽古とは如何なる稽古かである。魄の次元の稽古は顕界の稽古であり、次の次元の稽古は幽界の稽古といわれる。これを私は気の稽古だと考える。顕界の魄の稽古は肉体的技づかい、幽界の稽古は気づかいの稽古ということである。気で体をつかい、技を掛けるのである。
多くの合気道家が中々幽界の次元に入れないのはこの“気”がよくわからないからだと考える。よく分からないとは、実態がわからないこと、その機能が分からないということである。目に見えないし、手で掴めないので見せて貰う事も、持たせてもらう事も出来ない。故に教えるのも教えて貰うのも難しい。

次の次元の稽古は気の稽古ということなので、気を知らなければならないし、気をつかえなければならない。それではどうすればそれが分かり、つかえるようになるかということになる。
過って大先生がご健在の頃は、気を知り、気をつかえた先生や先輩方がおられた。それらの先生方や先輩方は大先生の受けを取られ、大先生の気を感じ、そして気を産み・つかうようになったのだと思う。
今では、大先生のように強力な気を発し、強力な気で技をつかえる先生方は非常に少ないと思うから、気を知り、気をつかう方法は己自身・己主体でやらなければならないと考える。他力本願ではなく自力本願である。

しかし己自身で気とは何か、どうつかうか等を零から見つけ出すのは不可能に近いが、有難いことに、大先生はそれを教えて下さっているのである。その教えを研究し、技につかっていけばいいことになる。その教えの主なものはこれまでの論文に頻繁に引用している『武産合気』『合気神髄』である。ここには気についても書いてあるので、この両書を繰り返し読む事である。どんな天才でも一度で分かるような書ではないから、繰り返し読まなければならない。段々分かってくるが、己の技のレベル相当の事しか分からないのである。従って、技が上達すると今まで分からなかった箇所が分かってくるのである。それ故、この両書は顕界の魄の稽古の次元にある間はよく分からないはずである。幽界の次元の稽古に近づき、進むにつれてどんどんわかるようになるのである。因みに、顕界の魄の稽古の次元のための素晴らしい書は吉祥丸二代目道主の著された『合気道技法』である。魄の稽古にある間、そして次の気次元に入るためへの必読書であると考える。

気は、幽界の次元に入らなければわからないわけだから、顕界の魄の次元ではわからない事になる。故に、『武産合気』『合気神髄』はわからないわけである。それでは魄の稽古の次元にあれば、この両書を読む意味がないのではないかとなるが、両書は読まなければならない。解らなくとも両書を読み続け稽古を続けて行けば、いつか次の次元に入れるはずである。気も分かってきて、つかえるようになるはずである。
私はそう確信している。