【第921回】 神は人の中にある

魂の学びの稽古をしようと勤めている。物質文明社会にあり、稽古も魄の次元にある中で魂の稽古をするのは並大抵ではない。大先生が居られれば、大先生が導いて下さったことだろうが、今や直接導いて頂く事が出来ない。しかし、私の場合は以前に大先生の技や立ち振る舞い、また、道話を拝聴しているので、ある意味では、大先生は心身内に居られるとも云える。また、大先生の教えが詰まっている『武産合気』『合気神髄』が残されているわけだから、大先生は居られるし、導いても下さっていることになる。

かって学生時代に「絶対とは何か?」を探し続けたことがある。もし世の中に「絶対」というものがあれば、それを基準に生きていけばいいからである。そしてこの世で絶対は死だけであるという結論を持つことになり、この探索は一段落した。しかし、「死」も残念ながら絶対ではないことが分かるのである。例えば、この大先生である。この世では死んでいるわけだが、我々の心の中、頭の中、また、恐らく体の中には生きておられるということである。自分の技づかいでも大先生はこのようにやられていただろうとか、大先生ならこうされるだろうとか、こんなことをすれば大先生に大目玉を食うだろう等などである。亡くなられている大先生が人間の中に入り、働いて下さっているということである。言うなれば、大先生は死んでおられず、生きておられるのである。
大先生は神業をつかい、神ともいわれるが、他に八百万の神がいる。これらの神々も人間の中に入られ、働いて下さるということでもあると考える。

肉体的な魄の稽古をし、息で肉体をつかう技づかいをし、気で技と体をつかう稽古をし、いよいよ魂の稽古に入るべく次元に入ってきたようだが、魂というもの、魂の働きなどが少しずつ見えてきた。
これまで分かったことは、魂は神であるということである。つまり我々合気道家が目標としている魂の技と神技ということになる。己の作為のない、無作為、無意識の技である。

今回、魂は神であることがより分かる大先生の教えを見つけたので下記する。
「丁度神のみ子たる我々は神の生き宮です。ここに祭政一致の本義があります。人は神より離れてはなりません。我々のいうこと行うことが祭政一致となるのです。この世において、目に見えざる火水が体内に通って、肉に食い入り血肉の血行となっている。これを魂という。くい入りくいこみ、くいとまっているから離れることがない。これが道であり、人の姿である。神は人の中にあるのです。」(武産合気P.54)
この文章から次のようなことがわかる。

これで神の生き宮の体内には神・火水・魂があるので、合気道家は神のみ子として祭政一致で技を練っていけばいいだろう。