【第920回】 合気道は武道であるを忘れるな

合気道は武道であることを忘れてはいけないと思う。今は、切った張ったの時代ではないから、何でも平和的にやらなければならないという時代だから何でも平和的にやればいいというわけではない。力を抜いたり、気持ちが出ない稽古や相手が気を悪くしないように受けを取ったり、投げたり押さえたりするのは武道の精神に則していないと思う。言うなれば、相手に失礼であるし、自分にも失礼である。また、そのような稽古をしても体も心も満足せず、喜んでくれない。

先人たちが作り上げた武道の形や思想、武道の本質を忘れたり、無視しては不味い。武道は本来、命を守るための、命の掛かった厳しいものであり、かっては必要で生まれ、育ったものである。大先生は武がなければ日本は亡びるとも云われているのである。
合気道は武道であるから、その厳しさが基になければならない。時代が時代だから、そんな厳しさはいらないという稽古人もいるだろし、それが大半であり、そのような稽古人の割合は時代と共に増々増えると思う。しかし、真に合気道を探究・修業しようとするなら、どうしても武道の厳しさをもって稽古に励むべきだろう。何故ならば、そうしなければ合気道の真の面白さ、素晴らしさ、凄さが分からないと考えるからである。

それでは具体的にどのような稽古をすればいいのかということになる。
例えば、取りも受けも力一杯やる事である。受けの打ったり、掴んだりの攻撃をしっかりする事と取りはそれをしっかり制し、捌くことである。勿論、初心者には出来ないので、ある程度の力がつかなければならない。
初心者の内は、先生に教えて貰った通りにやるのが稽古で、それで体が動くようになり、技を覚えていったわけだが、いつか先生や先輩に教わる事が出来なくなる。そこからが真の稽古になると考える。

相手が力一杯攻撃してくれば、その攻撃を捌くのは難しい。はじめは出来ないはずである。しかし、これが本当の稽古だと考える。出来る事をやってもあまり稽古にならないはずである。
因みに相手の激しい攻撃に対処するのはいずれ出来るようになる。攻撃という対象、つまり問題・課題が見えるし、結果も分かるからである。
更なる問題・課題が襲ってくるのである。宇宙、天地である。目に見えない次元のモノである。しかし、今度は戦いではなく、協力、合体である。宇宙天地との一体化である。だが、この一体化は前述の攻撃・争いを制するより遥かに難しい。目に見えない、幽界の次元だからである。
これを解決できるのは、武道の厳しい稽古であると思う。

出来ないから、考え、解決法を見つけ、試し、失敗して反省し、また挑戦する。これが本当の稽古であろう。稽古の目的がわかるから、あとはそれに挑戦すればいい。やることをわからずに稽古をしても進歩はない。
私の場合は呼吸法でこの稽古をしてきた。相手に思い切り己の手を掴ませると、そう簡単にはその手は動かない。しかし、段々と知恵がつき、相手の手より強い力で相手を制する事を覚えるのである。腹で手をつかい、布斗麻邇御霊の息づかい、魄を下、気(魂)を上の気づかいなどと変わる事ができたのである。もし、武道ではなく平和的な呼吸法をやっていたら、腹も出来ないし、布斗麻邇御霊の息づかいも出来ないし、気もつかえなかったはずである。

合気道の動きは剣の動きからきているといわれる。合気道の基本は徒手空拳であるから、手で打ったり、捌いたりするが、剣の武道としての剣でなければ技にならない。そのためには、手を剣の名刀のように鍛え、そしてつかわなければならない。勿論、剣も多少つかえなければならない。 

武道の厳しい極限までいくと必ず何か新たなモノが生まれる。適当な平和主義の武道からはそれが生まれない。合気道は武道であることを忘れてはいけない。