【第919回】 目に見えないモノを見る

合気道の稽古は通常、肉体的稽古、所謂、魄の稽古から始まる。これを顕界の稽古と云う。目に見える次元の稽古であり、目に見えるモノを求め、追求する次元である。また、物質文明の次元の稽古であり、肉体的な力が優先し、他と比べる相対的な稽古となる。
しかし、魄の稽古から脱出しなければならない時が来る。次の次元の稽古に入らなければならないからである。魄の稽古に限界を感じ、何か別の稽古をしなくてはならないと思うようになるはずである。だが、それがいつ来るかは分からないし、人それぞれ違うはずである。

細かい事はさて置いて、肝心である次の次元の稽古である。顕界の稽古の次の稽古は幽界の稽古である。息と気が主体になる稽古であり、目に見えないモノを見る稽古である。これまでは目で見ていた相手や己の体(手、足)を目で見るのではなく、目には見えないモノを目ではないモノで見るという事になろう。
それではまず、「目には見えないモノ」とは何かということになるが、それは例えば、己の心であり、肉体各部位の気持ち、相手の心、技の心等ではないかと考える。
次に「目ではないモノで見る」の目ではないモノとは何かである。
これは「ひびき」である。これは間違いないはずである。何故ならば、大先生は次のように言われているからである。
「合気と申しますと小戸の神業である。こう立ったならば、空の気と真空の気を通じてくるところの宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写し取る。そしてそれを実践する。相手をみるのじゃない。ヒビキによって全部読み取ってしまう。
大先生はここで、相手を見るのじゃなくて、ひびきによって全部読み取ってしまえと言われているのである。目で見ないで、ひびきで見ろということである。よって、ひびきこそは目に代わる第二の目ということになるだろう。

因みに、この第二の目のひびきに関して、次のような教えを大先生はされているのである。
「結局は、人各々がすべてを持っている、ことだま或いはすべての哲理も胎蔵しているのです。人の動きはすべてことだまの妙用によって動いているのです。自分が実際に自己を眺めれば音感のひびきで判ります。
ことに合気道は音感のひびきの中に生れて来る。つまり音のひびきによって技は湧出して来る。絶えず地におって天に、空にかえさねばなりません。そしてひびきにつれて行かねばなりません。ひびきも何もかも悉く自分にあるのです。」(武産合気P.49)
ここでは、「ひびき」を「ことだま」「音感のひびき」と言われているが同じモノのはずである。

「ひびき」「ことだま」「音感のひびき」を駆使して、目に見えないモノを見る幽界の稽古をしていかなければならないということである。