【第910回】 魄を脱して目に見えない次元の幽界・神界の稽古に入る

合気道の稽古をし、精進している。半世紀以上稽古をしていることになるが、ようやくいろいろな事が見えるようになってきた。見えるようになってきたという事は、それまで見えなかったことが見えるようになったということである。見えなかった事ということは、目で見えなかった事ということであり、それまでは目で見えることしか見えなかったということである。
合気道の稽古において、目に見える事でするのが顕界の稽古の魄の稽古ということになり、目に見えない事を稽古するのが幽界・神界の稽古の魂の稽古と考えている。合気道の最終的な稽古は魂の稽古(大先生は、これを魂の学びといわれている)であるが、魂の稽古に入るためには魄の稽古をしっかりしなければならないし、そのためには魄(肉体、力)を養成しなければならないし、大先生の監修、吉祥丸二代目道主著の『合気道技法』の教えに従って稽古をしなければならないと考える。

『合気道技法』が理解出来るようになり、技がつかえるようになれば、次の次元の稽古に入ろうとするはずである。肉体主動の技づかいからの脱却である。しかし、この脱却は容易ではないだろう。今迄、頼っていて肉体主体の魄の力(腕力や体力)ではなく、それに代わるモノをつかって技を掛けなければならないのである。少しでも力を抜けば、相手の力に押さえられてしまうから、どうしても力をつかうことになる。肉体的な力の腕力をつかわないで、それまで以上の力を出し、つかうためにはどうすればいいのかが分からないのである。

それでは、肉体的な力の腕力をつかわず、それに代わる力を見つけ、つかうようにするためにはどうすればいいのか。
一つは、導いてくれる先生から学ぶ事である。大先生はその理想であった。大先生は我々に魄の技ではなく、幽界・神界の魂の技を示してくださり、お話をされていた。しかし、当時の己は魄の稽古も満足に出来ていなかったので、大先生のその導きには気づかなかった。
大先生の技(演武や舞)は今でも頭の片隅に残っているので、出来るだけ大先生の技に近づくべく技をつかうようにしている。
また、大先生のお話も目に見えない次元のものだったので、当時はほとんどの稽古人はそのお話を理解できなかったし、若かった我々のように興味を持たなかったが多かったと思う。

私の場合は、無意識のうちに大先生に教えて頂いたことになる。魄ではなく魂の学びの合気道をつくられたのが大先生であるからである。しかし、具体的にそれを教えて下さったのは、有川定輝先生だった。これは以前にも何度も書いたので詳細は省くが、「そんな事をやっていると力はつかないぞ」という一言で魄の稽古からの脱却を始めたのである。つまり、この一言の教えがなければ、体はぼろぼろになり、今のように稽古は続けていなかったと思う。

二つ目は、大先生の教えの『武産合気』『合気神髄』を熟読することである。熟読するとは何べんも繰り返して読む事である。はじめは難しくて理解できないはずだが、読んでいる内に少しずつ分かってくるのである。「読書百遍意自ずから通ず」である。但し、『武産合気』『合気神髄』をただ読むだけでは理解出来ないはずである。合気道の稽古をしながら読まなければ理解出来ないという事である。また、体を動かしての技の稽古だけでも魄の稽古からの脱出は不可能であると思う。つまり、技の稽古で体を動かし、そして『武産合気』『合気神髄』を読むことである。

この魄を脱して目に見えない次元の幽界・神界の稽古に入らなければならないを以前にも書いているが、周りの後輩達がまだ苦労しているようなので多少でも足しになればと思い書いた次第である。