【第910回】 顕界から幽界の稽古へ

合気道を始めて60数年になるが、ようやく合気道を修業しているという実感が持てるようになった。技をつかっても合気道の技であると実感できるようにもなったのである。これまでは基本技を相手に掛けていても、形をなぞったもので、普通の動きの形と技であり、合気道の技を掛けているという実感がなかったのである。今はこれが合気道の宇宙の法則に則り、天地人(稽古相手)と一体化する技であり、そしてこれは合気道にしか出来ない技であると思うようになったのである。

これまで合気道論文に書いてきたようにいろいろな稽古をやってきた。自分でやるべき事はやったように思う。大先生の教えに従い、魄の稽古も自分なりにやったつもりである。『合気道技法』も勉強し、研究した。今さらながら、『合気道技法』のすばらしさに感謝である。合気道を志すものは先ずはこの『合気道技法』を読みこなし、この教えに従って稽古をしなければならないと確信する。

しかし、『合気道技法』を研究し、技を磨き精進していくと、壁にぶつかるはずである。今になるとその理由が分かる。それは『合気道技法』は、言うなれば、魄の稽古に対する教えであるからである。つまり、息とか、気とか、魂とか、天地宇宙とかの形のないモノや目に見えないモノには触れていないのである。要は、『合気道技法』の次元は、目に見える次元である顕界の世界の合気道であると考える。
これに対して、目に見えない次元である幽界・神界の世界の合気道がある。大先生が真の合気道、武産合気と云われている合気道である。合気道が目指す合気道はこの真の合気道、武産合気であり、宇宙と一体化する、万物の使命を果たすお手伝いをする愛の武道であるということなのである。
この次元の教えが『合気神髄』『武産合気』である。故に、魄の稽古、肉体的稽古、物理的稽古をしているうちはこの『合気神髄』『武産合気』が理解できないはずであり、この両書・聖典が難解だといわれる所以だと考える。

従って、目に見える次元の顕界の合気道は、物質的・肉体的・相対的な魄の合気道であるが、この合気道は次の真の合気道・武産合気へ進むため、錬磨するための土台になるのに必要なのである。後で分かることになるが、技を掛ける際に魄の土台、つまり、肉体がしっかりしていなければ、その上・表に魂がのらないし、気も働いてくれないのである。魄の体は鍛えなければならないし、頑強であればあるほどいいということである。

結論を云えば、魄の顕界の稽古をしっかりすること、そしてそこから目に見えない次元の幽界・神界の稽古に移らなければならないということである。顕界の稽古をしっかりやらないのも駄目だし、顕界の稽古を一生懸命にやっても次の次元に移らないのも駄目だということになる。