【第905回】 気の交流が大切

合気道を長年稽古してきていろいろな事がわかってきた。他の事を長年やってもいろいろな事がわかるはずだが、合気道は他の事をやることによって得られるモノと多くが異質であるように思う。合気道ほど自分自身の体を知り、つかい、また、宇宙の生成と営みを感じ、宇宙と一体化することである。

合気道は容易に会得出来ない事も分かってくる。入門した当時もある程度それは分かっていたが、稽古を続けて行くうちに増々そう思うようになったということである。まさしく一生ものである。
しかし、合気道はそう難しくも複雑でもないのではないかとも思えるようにもなってきた。何故ならば、合気道は科学であると開祖が言われているし、実際、大先生の教えの通りやれば、結果が出て来るからである。つまり、技もやるべきことをきちっとやればいい技が生まれるはずだからである。勿論言うは易くである。しかし、要は簡単ではないが可能性はあるということである。

これまでの最大の難関は「気」であった。「気」は見えないし、他人に示すことも出来ない。しかし、「気」は大事であるという。「気」が大事である事は、所謂、真の合気道(武産合気)の段階に入ると切実である。魄の次元の稽古をしているうちはあまり関係ないが、真の合気道の次元に入ると必須になるのである。大先生は、真の合気道の技は五体のひびきとむすびが必要であると教えておられるが、五体のひびきとむすびは「気」によるものだと考える。
故に、「気」を感じ、産み、そしてつかうことが出来るようにしなければならないことになる。

「気」を感じる最も一般的な方法は、気で技をつかう相手の受けをとることだと考える。大先生の受けを取られた先生方や先輩の多くは強く、上手くなったわけだが、それは大先生の受けを取ったことによって「気」が身につき、そしてつかえるようになったからだと考える。「気」は十字の息づかいと体づかいから生まれるから、受けを取る際に縦に息を吐き、手(体)を伸ばし⇒横に息を引き、手(体)を拡げ⇒息を縦に吐き、手(体)を伸ばすと無意識でやられ、自得されていたものと考える。今はこの先生方や先輩方が後輩に受けを取らせて「気」を教えているはずである。

次は自分自身で気を産み、気をつかう鍛錬をすることである。その方法は上記の息づかいと体づかいで技をつかう事である。気が生まれるためには、力一杯で体も息もつかわなければならない。適当に、力を抜いてやっても気は産まれないし、流れないのである。

同じ技を掛けても、後進・後輩は上手くいかないものである。体のつかい方、息づかいが同じでも技が効かないのである。その理由は「気」の有無、強弱にあると考える。「気」が欠けているか弱いために五体のひびきが産まれず、相手とむすぶことができないので技にならないのである。

大先生は「真の合気道(武産合気)は気の交流を最も尊重する」(武産合気P.83)と教えておられる。つまり、気が働かなければ、ひびきもむすびにもならず技にならないということである。
逆に言えば、気を産み、気を流し、気をつかえるようになれば、五体にひびきが生まれ、そしてむすびの技が産まれるということである。
気の交流が大切と云う事である。難しいが、合気道は科学であるからやるべきことをやれば出来るようになるはずである。