【第902回】 合気上達の極意

合気道を稽古している人は少しでも上達したいと願っているはずである。自分もそうだったし、稽古仲間や周りをみてもそうだからである。しかし、初心者の内はある程度のレベルまでは上達するが、ある時点から上達の速度が減速し、そして停止してしまうのである。そこで稽古を止めてしまう稽古人はいるが、何とか上達しようと頑張っている人が大半である。しかし以前のように上達はなく悶々することになる。私の場合は、悶々とすること数十年続いた。

何故、上達が止まってしまったのかの理由は今になると分かる。一言で云えば、魄の稽古から抜け出せなかったからである。それまでの肉体の力に頼る魄の稽古をやり続けていたということである。つまり、上達するためには魄の次元の稽古から魄の次の次元の稽古に移行することが必要だったのである。それを気づかせて下さったのが、本部道場で水曜日に指導されていた有川定輝先生であった。片手取り呼吸法を体の大きな本部事務局の藤田昌武先輩とやっていたが、手の力では動かないので体当たりして倒そうとしていたところに有川先生が近寄って来られて、「そんなことをしていると力はつかないぞ!」と言われたのである。以前、先生がやられていたような稽古法だと自信をもってやっていたのにそれは駄目だといわれたわけである。そこで一晩考えて分かったことは、稽古法を変えなければならないという教えであることに気がつたのである。よく考えて見ると以前は有川先生も強力な肉体的な力で技を掛けられておられていたが、この時は既に力ではない力で技をつかわれていることに気づいたのである。魄から魂の技づかいに変わられていたのである。失礼な言い方ではあるが、鬼の有川から仏の有川に変わられていたのである。
ここで何を云いたいかと云うと、魄の稽古から次の次元の稽古に変わらなければならないことを有川先生が示唆して下さったということであり、私は恵まれていたということである。もし、この一言がなければ、今でも魄の稽古を続けるか、体を壊して引退していたはずである。

魄の稽古から次の次元の稽古に変わらなければならないと気づいても、それではどのような稽古をしなければならないのかという事になる。この問題を解決してくれる最良なものが大先生の教えになる『合気神髄』『武産合気』である。ここにそのすべてが書いてあると云っていいだろう。しかし、難解である。魄の次元、顕界での稽古をしている内は読んでも分からないのである。目に見えない幽界の次元に入らないと分からないし、深く入れば入るほど分かるようになるのである。

有川先生の教えから20年ほど『合気神髄』『武産合気』の教えに従って技を練ってきたが、これまでは一つ一つの教えを点として身につけてきた。それらはこれまでの論文で書いてきた通りである。そしてようやくこれらの点が繋がり、線となって技としてつかえるようになってきたわけである。
そこで今の課題は、これまで学んできた技と教えをどのようにまとめ上げ、完成に向かわせるかである。点から線、円、そして球にすることである。
そして、それは真の合気道、武産合気の真髄の技を身につけることだと考えた。
すると不思議な事にそのための極意を大先生の次の教えの中に見つけたのである。
「技は、すべて宇宙の法則に合していなければならないが、宇宙の法則に合していない技は、すべて身を滅ぼすのである。このような技は宇宙と結ぶことはできない。ゆえに武産の武ではない。宇宙に結ばれる技は、人を横に結ぶ愛の恵みの武ともなる。宇宙と結ばれる武を武産の武というのである。
武産の武の結びの第一歩はひびきである。五体のひびきの槍を阿吽の力によって、宇宙に拡げるのである。五体のひびきの形に表れるのが「産(むすび)」である。すべての元素である。元素は武の形を表し、千変万化の発兆の主でもある。呼吸の凝結が、心身に漲ると、己が意識的にせずとも、自然に呼吸が宇宙に同化し、丸く宇宙に拡がっていくのが感じられる。その次には一度拡がった呼吸が、再び自己に集まってくるのを感じる。このような呼吸ができるようになると、精神の実在が己の周囲に集結して、列座するように覚える。これすなわち、合気妙応の初期の導きである。合気を無意識に導き出すには、この妙応が必要である。
こうして合気妙応の導きに達すると、御造化の御徳を得、呼吸が右に螺旋して舞昇り、左に螺旋して舞い降り、水火の結びを生する、摩擦連行作用を生じる。水火の結びは、宇宙万有一切の様相根元をなすものであって、無量無辺である。この摩擦連行作用を生じさすことが、できてこそ、合気の真髄を把握することができるのである。」(合気真髄 P86,87)

これで技をつかえば、真の合気道、武産合気の技になるし、これでなければ魄の技になってしまい、技にならない事を確認したのである。また、この教えを一句一語疎かにせずに技を練っていけば合気の極意を得られると確信するのである。但し、これはまだ途中までの極意であり、更なる進むべき道が続いており、そのための極意もあるはずである。何しろ、合気の卒業は山彦の道だからである。

普通、武道の世界ではこのように詳細に極意など記したり、公にしないはずだが、合気道はこの点でも大らかである。合気道は科学であるから、この極意は誰にでも会得できる可能性があるわけである。勿論、やるべきことを積み重ね、ある程度のレベルになる必要がある。