【第902回】 魄が下になり、魂が上になるとは(その1)

合気道は魂の学びであるから、魄から魂の技がつかえるようにならなければならないと修業してきたが、魂についてと魂と魄の関係が全然分からず暗中模索の状態だった。頭をひねって、ああでもない、こうでもないと考えてみたが全然駄目だったのである。しかし、最近ようやく正面打ち一教で魂のひれぶりによって技がつかえるようになったと思うので、これまで分からなかった「魄が下になり、魂が上になる」を正面打ち一教で分析し、解釈してみることにする。

まず明確になったのは、正面打ち一教も「魄が下になり、魂が上になる」でなければ技にならないという事である。大先生の教えでは「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる。」である。
相手と一体化し、相手を凝結し、自在に導くのは魂(のひれぶり)であるが、この魂が中々出て来ないし、働いてくれなかったので技にならなかったわけである。

次にここでの魄とか魂を考える場合、頭で抽象的に考えるよりも物理的に具体的に考えることにした。つまり、まずここでの魄は腹、魂は手とした。何故、魂が手なのかというと、気や魂が手から出ることを感じるからである。そうすると、「魄が下になり、魂が上になる」は、腹は常に下になり、この腹の上に手がのることになる。腹が上がったり、浮いては手が腹の上にのらないし、上がらない。
腹が下になり、手がその上にのると手先から魂が生まれ魂のひれぶりが起こり、相手を凝結してしまうので、後は腹で凝結した相手を抑えたり浮かせたり自在に導く事ができるようになる。

「魄が下になり、魂が上になる」と腹と手の空間は魂(気)で満ちる。手はその圧力を感じ、重い手になる。お風呂やプールで浮いた手の感じである。慣れてくれば空気でもその圧力を感じ重い手を感じ、つかうことが出来るようになる。

しかし、「魄が下になり、魂が上になる」は容易ではない。やるべき事を積み重ねてそれを総動員してやらなければならないからである。例えば、腹と手先を結び、腹で手先を操作すること。腰腹からの力(気)を手先に集め、手の平を手鏡にし、強力な空の気を生み出す事。これが弱いと真空の気、魂が生まれず、魂のひれぶりが起こらない。
もう一つ大事な事は、息づかいである。布斗麻邇御霊の形をアオウエイの言霊でやらなければならない事である。この息づかいは正面打ち一教では勿論のこと、すべての合気道の基本技で必須である。その他にも数多くあるが、これはこれまでの論文で書いてきた通りである。

いずれにしても、「魄が下になり、魂が上になる」でないと魂の技、魂のひれぶりになる技にならない事は確かである。頭をひねくって考えるより、体で感じた方がいいし、それしか出来ないと考える。体は正直である、頭のように嘘はつかない。
尚、今回は、下になる魄を腹、上にくる魂を手としたが、これで稽古をしていけば更に新しいことがわかるのだろう。