【第900回】 空の気、真空の気とは

「合気の道を究めるには、まず真空の気と空の気を、性と業とに結び合わせ、喰い入り乍ら技の上に科学を以て錬磨するのが修業の順序であります。」と大先生は教えておられるので、この教えに従って試行錯誤しながら修業してきた。最大の難関は真空の気と空の気であった。

最近ようやく、正面打ち一教が少し格好がついてきたのだが、この技の過程で、これが空の気であり、これが真空の気であるはずだと自覚したのである。
まず空の気である。相手が打ってくる手をこちらの手で制するが、腰と十字になった手鏡で相手の手に接すると強力な力が出ると同時に重く、引力のある力になる。これが空の気であると感得したのである。大先生が「空の気は引力を与える縄であります。」「空の気は物である。それがあるから五体は崩れずに保っている。空の気は重い力をもっている。また、本体は物の気で働く。空の気は引力を与える縄。自由はこの重い空の気を解脱せねばならない。これを解脱して真空の気に結べば技がでる。」云われている感覚と一致するのである。

次に真空の気である。相手の手に接している手鏡の手先に十分気が満ちると、自然と手先が親指を中心に返り、相手の力が抜け浮き上がり、触れただけの手や指で相手と一体化し、自由に導く事ができるようになる。
これは大先生の次の教えと一致するのであります。
「空の気は引力を与える縄であります。自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます。」
「真空の気がいちはやく五体の細胞より入って五臓六腑に喰い入り、光と愛と想になって、技と力を生み、光る合気は己の力や技の生み出しではなく、宇宙の結びの生み出しであります。呼吸の微妙な変化は真空の気に波動を生じさせる」
尚、この真空の気を魂といい、また、神と云うのではないかと思う。

空の気、真空の気がこうだろうと大胆に決めた理由はもう一つある。それは、大先生は「合気の道を究めるには、まず真空の気と空の気を、性と業とに結び合わせ、喰い入り乍ら技の上に科学を以て錬磨するのが修業の順序であります。」といわれているわけだから、技、つまり一つの基本技には必ず空の気と真空の気の働きがなければならないということになる。どの基本技も空の気、真空の気をつかわなければならないということである。故に、正面打ち一教では、手鏡を空の気でつくり、真空の気の波動で相手と一体となって技を決めたものを空の気と真空の気としたわけである。

但し、空の気、真空の気をつかって技を生み出していくには、布斗麻邇御霊と“あおうえい”の言霊をつかわなければならない。これを大先生は、「神通千変万化の技を生み出す、ということは真空の気と空の気を、性と技とに結び合ってくり入れながら、技の上に科学すると申し上げたことがあります。これは皇祖皇宗のご遺訓たるところのフトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。」と教えておられるのである。
これはこれまで研究してきているように、身につけるのはそう簡単ではないが、会得しなければならない。そうしなければ、空の気、真空の気は身につかないのだから。