【第897回】 魄が下になり、魂が上、表になる

60年ほど合気道を修業してきたが、ようやく最終目標である魂の次元の入り口に立てたようだ。これまで合気道の基本技を身につけ、体を練ってきたわけであるが、合気道の最終目標は魂の学びであるとの教えであるから、魂の学び、つまり魂で技をつかえるようにしなければならないわけだが、この魂の学びが全然わからなかったのである。魂だけでなく、気もどういうものなのか、どうすれば出るのか、つかえるのか等も皆目見当がつかなかった。

気も魂も皆目わからないながら、技の稽古は続けてきた。特に、自主稽古では呼吸法、主に片手取り呼吸法をやっていた。有川先生に技は呼吸法がつかえる程度にしかつかえないと教わってからだから、30年はやっていることになる。30年にわたって片手取り呼吸法で気や魂を模索してきたわけである。
お陰で、最近、魂が現れて来た。しかし魂を感じ、意識したのは呼吸法ではなく、正面打ち一教であった。相手が力一杯打ち下ろしてくる手は手の力では上がらないが、気と魂で上がる事がわかったのである。そして正面打ち一教で魂を感じると呼吸法でもそれを感じることとその働きがわかったのである。

これが魂だと思えたのには理由がある。別に独善的な一人合点ではないという事である。つまり、それまで教わった大先生の教えに則していたと感じたわけである。要は、魂の大先生の教えとはこういうことなのかと分かったということである。
その大先生の魂の教えの一つは次の通りである。
「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。魄が下になり、魂が上、表になる。」(「武産合気」)
自分が、魄が下になり、魂が上、表になって正面打ち一教や片手取り呼吸法がつかえるようになると、大先生の演武や有川先生の技、多田先生の技づかいのすばらしさと我々との違いがここにあったのかと理解できるようにもなった。
また、魄が下になり、魂が上、表になる難しさも改めてわかった。只、稽古を続けて行けば身につくということではないのである。やるべき事をしっかりやって、それを積み重ねていかなければならないのである。
例えば、そのやるべき事を再認識したのが、魂の土台になる魄をしっかり鍛え、大事に扱わなければならないということである。ふにゃふにゃした体や手では駄目だという事である。合気道は、自分も含めて、力をつかわないとか、体力に頼らないとか、肉体を粗末に扱う傾向があるように思える。しかし、これは大きな間違いであり、肉体(魄)がしっかりしていなければ魂が生まれないし、魂の技はつかえないのである。これを大先生は、「肉体すなわち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめが出来ない。合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである。」と言われているのである。

更に、肉体(魄)をしっかりした魂の座る土台にするためには気の働きが必須になることが分かってくる。つまり、しっかりした肉体は気で満ち、気が流れるということである。肉体は気で満ちるという事はその部位が縦、横、縦の十字に伸び、広がり、伸びることであり、この十字によって気が生まれるということである。気は十字から生まれると大先生の教えである。
故に、気を生み、気で満たしたい箇所は身体の思う箇所(手先、手、足先、足、腰、首)でも肉体全体でも可能となり、肉体を気で満たしてしっかりした土台ができる。土台ができると腹の力が仙骨を通して体の表(背中側)に流れる。これが、魄が魂の世界にふりかえるであると感得する。
尚、ここで気と魂が出てきたが、私は気は意識して出て来るものであり、魂はそれに対して無意識で出て来る、働くものであると感得している。大先生は、気力は魄であるともいわれているのである。

呼吸法と正面打ち一教だけでなくすべての合気道の基本技で出来るようにならなければならない。私個人の最終目標は胸取りである。相手が胸や道着に触れた瞬間に魂で投げたり抑えることである。合気道を始めた時の夢、ちょちょいがちょいと相手を投げ飛ばすことである。