【第896回】 肉体が発する感性としての言葉

最近の合気道の修業の目標は魂である。合気道は魂の学びであると教わっているからである。お陰で少しずつではあるが魂がわかってくるようである。直近では、大先生の教えである“頭のはたらきは手にまかす”が分かったことによって魂が大分身近になったようである。頭の働きを手に任すことによって魂が魄の上になり、魄の土台の上に魂が働く感性が得られるようになったわけである。

これまで絵画や書などの名人、達人の事を書いてきたが、彼ら、彼女たちがつくった作品は無意識で描かれたものであったはずだということである。つまり、意識でつくられたのではなく、頭でつくられたものではないはずだということである。例えば、篠田桃子、東山魁夷の作品を見れば、頭で考えて描いたとはものとは思えない。世界で評価されている作品は頭で描かれたものではなく、合気道の教えにある“頭のはたらきは手にまかす”でつくられたと考える。これは合気道で云う法則であり、時間空間を超越した宇宙の法則であると考えている。
しかしこれまで、そのような素晴らしい作品はあるものの、どうしてそのような素晴らしい作品ができたのかの説明はなかった。名人録など調べたが皆無であった。

しかし、芸術の世界にも“頭のはたらきは手にまかす”でないといい作品はできないという考えに遭遇した。
しかも、この他分野の教えによって合気道の教えがより具体的で鮮明になった。特に、魂に少し近づけたのである。
それは美術家の横尾忠則氏の『ことばのくすり』(稲葉俊郎著 大和書房)の書評の次の文である。
「僕は絵を描く時、脳から言葉を排除して、肉体を言語化する。脳の発する言葉は肉体言語に劣る。なぜなら肉体は正直である。従って魂に最も近い存在である。脳は喜怒哀楽に左右されウソも平気。肉体はウソをつくことができない。そこで脳の発する言葉ではなく、肉体の発する感性としての言葉に従う方が納得できる。芸術家はそのことをよく理解している。」

これはこれまで技と体を練ってきた稽古を思い返せば、すべて納得できる。脳からの意識を排し、手が働くと自然で美しい技が生まれ、大きな力が魄の表に出るようになり、これが魂であろうと実感するのである。つまり、脳(頭)をつかって技を掛けている内は魄の力のままで、魂が生まれないということである。

芸術の世界でも肉体が発する感性で作品をつくっているのである。これは宇宙の法則であるということであるから、合気道の技づかいも脳(頭、意識)から手(肉体、無意識)でつかうようにならなければならないだろう。