【第895回】 手を名刀のようにつかう

「第758回 手は刀のようにつかう」で、手は刃筋を立てた刀としてつかわなければならないと書いた。その後も手を刀のようにつかっているが、この理は間違いではないし、技をつかうためには重要であることを確信した。
また、手を刀としてつかっていくと更に素晴らしい働きがあることが分かってきたのである。それは気が生まれ、気が働く事、そして魄の上に魂が出て働くようになる事である。逆に言えば、手を名刀のようにつかわなければ、気もつかえないし、魂も働いてくれないということなのである。

まず、前回の手を刀のようにから、今回は手を名刀のようにと書いた。刀から名刀になったわけである。自分の感覚がそうさせただけである。以前の刀はまだ物理的で目に見える顕界の次元の刀であり、今回の刀は、目に見えない次元の幽界での刀と感じるからである。

この名刀を説明すると、折れ曲がらない刀で、刃筋が立った刀であるが、最大の特徴は、頭の働きをまかされた手の刀と云う事である。頭であれこれ考えたり、指示するのではなく、手が独りでに、そして最適に働いてくれるのである。これは大先生の教え「頭のはたらきは手にまかせる」による。この時の手が刀から名刀になると感じられるわけである。更に、頭のはたらきが手にまかせらると、名刀の手が魄を下にし、その上に魂を表し、その現われた魂で体と技をつかうようになるのである。これまでになかった不思議な感覚である。恐らくこれを魂のひれぶりというのだろうと思う。(尚、魂は正直言ってまだよく分からないが、大先生は、魄の上に出るものを魂のひれぶりと言われているので、これが魂であろうとしたわけである。)

名刀は技をつかう際、いつでも真っすぐでなければならない。指、手の平、手首、肘、肩など如何なる動作でも折れ曲がったり、歪んだりしてはならない。手先を内回りでも外回りでも返す時も真っすぐな名刀でなければならない。そのためには、腰腹で返さなければならない。手を刀と思って腰腹で手を刀として刃筋が立つようにつかうのである。腹と手先は連動して動くことになる。手先に気を満たし手先と?げた腹で返す。手先だけで返すと指や手の平や手首が折れたり歪んでしまいガタガタの鈍刀の手になってしまい、後は魄の力に頼らなければならなくなる。相手とぶつかり、相手に抑えられたりするのはこれが最大の原因だと見ている。

手が名刀となるためには稽古が必要だ。教えられてもすぐには身につかないようだからである。そもそも手の指が真っすぐに伸ばせないものである。本人が伸ばしたつもりでも端からみると折れ曲がっている。名刀の切っ先部であるから真っすぐ伸びきらなければならない。そして切っ先も伸びきった状態で技をつかわなければならないのである。
切っ先が延び、伸びきった状態で技をつかう鍛錬稽古として、まず、手の親指を体とし、手刀(小指側)を用としてつかう。次に手鏡をつくって手をつかい、また、顔の前に手鏡を置くように頭をつかうこと等書いた。

手が名刀としてつかえるようになると、技が繋がってくる。例えば、正面打ち一教から同二教、三教、四教や同入身投げ、また、片手取り呼吸法等など。
また、応用技が出て来る。体を一寸返ることによって名刀の手に相手の手が自然に入り込んでくるのである。
従って、応用技は手を振り回すのではなく、手は名刀のようにし、体(腰腹)、足の陰陽十字と息づかいで掛けなければならないと思う。