【第838回】 テーマを持って

合気道を健康法や美容法としてやっている人でも、少しでも上達したいと思っているはずである。少しでも上手になりたいと思っているから、上手になれば嬉しいのである。つまり、稽古人は誰でも上手になろうとしているということである。只、うんと上手くなろう、そこそこ上手くなればいいとか、そのために全力をあげるとか、余り頑張らないで上手くなりたいとか、人によって違っているだけなのである。

合気道を始めた頃は、黙って先生方の真似をして稽古を続け、合気道の技(形)を覚え、受け身ができるようにし、上達してきた。
これが5年、10年続くが、それなりの上達はあるが、徐々に上達が止まってくるものである。所謂、壁にぶつかるわけである。
壁にぶつかるかということは、それまでの延長線上での稽古では駄目だということである。稽古のやり方、稽古法を変えなければならないという事なのである。

更なる上達をするために、壁を突破するわけだが、どのように稽古法を変えればいいのかということになろう。
壁について言えば、ぶつかる壁の前側は魄の稽古の次元、壁の後側には、気の稽古の次元ということになる。別に表現すれば、壁の前側は目に見える顕界、壁の後ろ側は目に見えない幽界と考えてもいいだろう。従って、それまでの腕力や体力主体の稽古から気主体の稽古に変えなければならない事になるのである。

因みに気の稽古の前に息の稽古がある。息で体と技をつかう稽古で、これが出来てくれば、気で体と技をつかう気の稽古が出来るようになるのである。更に、気の稽古、幽界の稽古の後には、また壁が立ちふさがり、その壁の向こうが神界で、魂の稽古の次元があるはずである。

目に見える稽古、顕界の次元の稽古をしている時は、先生や他人の技や体づかいを見たり、真似していけばよかったが、目に見えない稽古、幽界の次元の稽古に入ってくるとそれが難しくなる。これまでの別の上達方法で稽古をしなければならない事になるのである。それは、

一つは、大先生の教えのつまった『武産合気』『合気神髄』を読む事である。合気道の稽古で目指すモノが分かるし、上達の方法も分かる。気とは何か、気の出し方やつかい方も教えて下っている。我々が知りたいと思う事、疑問などほぼすべてがここに書かれているようなのである。

二つ目は、この『武産合気』『合気神髄』に書かれている大先生の教えを技の稽古で実践することである。難解なものが多いので、試行錯誤を繰り返しながら、技で試し反省しを繰り返して会得していくのである。
合気道は技を練って上達していくわけだが、技を会得するのは容易ではない。
何故ならば、合気道の技は人がつくるような人工的なものではなく、宇宙の営みを形にしたものであるからである。これまで書いてきたような、一霊四魂三元八力、陰陽、十字、布斗麻邇御霊、アオウエイ・アイウエオの言霊、赤玉・白玉・真澄の玉等々の宇宙の営みを形にしたものなのである。

三つ目。技は宇宙の営みを形にしたものであるから、法則がある。宇宙の法則である。広大な宇宙の法則である故に無限にあるはずである。この無限にあるであろう宇宙の法則・営みを見つけ、技に現わすのである。
無限にあるのだから、限られた時間で会得することは出来ないと諦めてしまえばそれでもいいのだろうが、人は駄目だと分かっていてもそれに挑戦するという本能がある。故に、もし、諦めたならきっと後で後悔する事も分かっているはずである。これを端的に証明することができる。人は必ず死ぬわけだが、人は誰でも一生懸命に生きていることである。

限られた時間で出来るだけ多くの技、宇宙の法則・営みを身につけるためにはどうすればいいかということになる。
それはテーマを持って稽古・修業をすることであると考える。例えば、今日の相対稽古では、足を右左に規則正しく陰陽につかうとか、足を十字の撞木でつかうとか、イクムの息づかいで手をつかうとか、親指を支点に動かさずに手先をつかう等々である。勿論、テーマとして、一教、二教、四方投げでもいい。

テーマを持って道場稽古をしなければならないが、勿論、稽古時間の前後の自主稽古は自分が上手くいかず取り組んでいる技や研究しているテーマをやるべきである。好きな技や得意な技をやりがちだが勿体ない。

道場外の自主稽古でもテーマを持ってやるといい。自主稽古だから自由にテーマが持てる。また、そのテーマは徒手だけに留まらず、剣、杖、居合等の得物でも試してみればいい。大体、徒手で出来たことは剣でも出来るようだし、合気道の技は剣の動きから来ている事がよく分かる。

以上、上達したいなら、テーマを持って稽古をすることであるということである。