【第824回】 布斗麻邇御霊と大木たいぼく

真の合気道はフトマニ古事記で技を生み出していかなければならないわけだが、その布斗麻邇御霊が難解である。何せ目には見えないし、声で教えてくれるわけでもなく、形もないモノに則って技を生み出していかないからである。しかし、有難いことに、大先生は布斗麻邇御霊で技をつかわなければならないと教えて下さっているし、江戸時代後期の国学者山口志道は、その布斗麻邇御霊を形象してくれているのである。この土台があるから、先に進める事が出来るはずだと考える。
それにしても布斗麻邇御霊は難解である。布斗麻邇御霊のそれぞれの働き、それに布斗麻邇御霊の形象は宇宙の営みであり、万有万物の創成である等の見えない次元にあるし、また、○□、|、━で表わされる呼吸は、最初は複雑怪奇で、中々出来ないものである。

しかし、布斗麻邇御霊と悪戦苦闘を繰り返していくと、少しずつそれらの難問が氷解して、布斗麻邇御霊とはどういうもので、どのような働きがあり、どのように対処すればいいのか等が分かり、技にも結び付いてくる。
そして多少分かってくると、合気道の技は布斗麻邇御霊の形象でつかわなければならないということを確信するようになるのである。
まず、合気道は宇宙の法則に則ってやらなければならない。布斗麻邇御霊は宇宙の創造と営みであるから、合気道は布斗麻邇御霊でということになる。また、宇宙と云う事は万有万物ということになるわけだから、布斗麻邇御霊の営み・働きは万有万物に適合するということになる。つまり、布斗麻邇御霊を別の観点から見てもいいということである。

窓から林の木々を見ていると、その木がまさしく布斗麻邇御霊の営みによって産まれ、育ち、生きているように見える。

 芽が出て天を目指して伸び
 根が出て地に向かう
 枝が横に拡がり、
 そして横から縦にも広がる
 十字になり気が満ち、葉の出る準備をする(と思う)
 葉が出て来て
 花が咲き、実がなる

この見方はとっぴなものではなく、大先生は、「武産合気というものは、丁度、呼吸の出来る中心部に肉をつけ皮膚をつけ、枝葉をつけ、天地に根をはって、天に呼吸している一本の大木のようなものである。葉一枚落ちてもいけない。」(武産合気P82)と教えておられるのである。これは木も布斗麻邇御霊に従って生きているということであり、真の合気道、武産合気も、布斗麻邇御霊による大木のように、呼吸、体、技をつかわなければならないということになるだろう。
大先生は、「武を修する者は、万有万神の真象を武に還元さすことが必要である。たとえば谷川の渓流を見て、千変万化の体の変化を悟るとか、また世界の動向、書物をみて無量、無限の技を生み出すことを考えるとかしなければいけない。合気道はこのように間接に、宇宙の真象の一部を通じて創造されることが可能であるから、どんな微妙な宇宙の変化の真象をも見逃すことなくなく、注意して修しなければならない。」(合気神髄 P.106)と教えておられるように、木からも間接に学べと云われておられるわけである。

尚、最後ので花が咲き、実がなるわけであるが、これを大先生は、「この世の中に魂の花を咲かせる。つまり身体が魂の花となり、桃の花となり、実を結ぶことなのです。」(武産合気p.91)と教えておられるわけである。これが大先生が頻繁にいわれていた、「合気道は桃の実の養成」であると思う。己の身体と世の中に魂の花を咲かせることであり、合気道の目標と使命がここにあるという事だと考える。