【第811回】 魂に神習うていく己の岩戸開き

『合気神髄』か『武産合気』を毎日、少しずつ拝読している。『合気神髄』を読み終えたら、今度は『武産合気』と繰り返し々々読むのである。その時の読む範囲は、基本的には章毎、項目毎であるが、時には章や項を二回、三回に分ける事もある。以前は何が何だかほとんど分からなかったので、適当なところで本を閉じていた。

今、読んでいるのは『合気神髄』である。そして読んだ章・項目は「魂に神習うていく己の岩戸開き」(P.140)である。
何故、わざわざこの章・項目をここに取り上げたかというと、今、四苦八苦している”魂“について、そしてどうすれば”魂の学び“に入る事が出来るかを教えてくれているのではないかと思ったからである。

「魂に神習うていく己の岩戸開き」に三つのキーワードがある。
一つは、「魄は宇宙組織の魂の糸筋を磨いていく、魂に神習うていく己の岩戸開きである」である。
岩戸開きとは、見える世界から見えない世界、物質世界から精神世界、競争社会から愛の社会などに変わることとするが、岩戸開きは魄によっても行われなければならないということである。魄、人の場合は身体、肉体であるから、肉体によっても己の岩戸開きが出来るから、肉体を磨かなければならないという事である。肉体をどう磨くかと云うと、魂に神習うのである。例えば、布斗麻邇御霊に則って肉体をつかえばいいということだろう。つまり、肉体の魄も大事であるということである。肉体によって魂(の糸筋)が磨けるのである。大先生が云われる、「魄を大事にしなければならない」とは、この事なのだろう。
二つ目は、「気を通して魂を磨く」である。
布斗麻邇御霊に合して技をつかうようにすると、気が感じられるようになる。気は力の大王であるといわれるように、また、魄の力に勝ることや、己の気と天地の気を知ることになる。そしてその気が無意識のうちに運化していることを知るのである。また、気は、魂によって運化しているように思う。魂とは“宇宙の心”であろうと考える。何故なら、宇宙の心は、宇宙楽園建設に向けての、至仁、至愛、至善、至純、至美であり、無色透明、無味無臭である。これが魂だと考えるからである。
尚、気と魂の関係は、気は魂の用であり、魂は気の体であると考える。
三つ目は、「己の魂より結んで稽古をする」である。
宇宙の魂だけでなく、己にも魂があるということである。己の魂とは、心とは違う。心はいい事も悪い事も思うわけだが、己の魂は、宇宙の魂に従った、宇宙楽園建設に向けての、至仁、至愛、至善、至純、至美であるはずである。この魂を目指し、近づくために、合気道は、気育・知育・徳育・常識の涵養・体育を行っているのである。
この己の魂が生まれてくると、これを宇宙の魂に結び付けて稽古をしていけばいい事になる。

尚、この三つのキーワードは、魄、気、魂と稽古の順の三段階になっているのである。これまで何度も読んでいたが、この度、ようやくこれに気づいたわけである。やはり、『合気神髄』、そして『武産合気』は大切な事を教えてくれる合気道の聖典であることがあらためて分かった次第である。

これで魂の学びに入って行けるのではないかと思っているが、もしかしたら、この考えは間違いかもしれない。しかし、少なくとも、己の体と頭は了承してくれているようなので、それを信じることにする。また、“魂”等、分からないからと言って、そのままに放置したり、逃げるのは、武道家として卑怯だろう。間違っていようが、挑戦することが大事だろう。答えは、技が示してくれる。技で表わせばいいだろう。間違いに気づいたら直せばいい。その内に結論が出るはずだ。