【第760回】 相対稽古でも単独動作で

合気道の一般的な稽古は、相手に技を掛けたり受けを取る相対の稽古である。左右表裏と四回技を掛けたら、今度は相手の受けを四回取る。段位や年齢や階層に関係なく続いている素晴らしい稽古法であると思っている。真の平等、博愛主義である。
これ以外にもこの稽古法の素晴らしさがある。それは、技をまだよく覚えていない者は、相手の導きによって技を覚えたり、そのコツを学ぶ事できる、つまり受けで技を覚えるし、ある程度技がつかえるようになれば、己の掛けた技で相手がどのように崩れたり、倒れていくのが分かる等、因果関係が分かることである。

しかし、この稽古法には問題もある。合気道の相対稽古は勝ち負けの勝負をしているわけではない。稽古人は皆それが分かっているわけだが、どうしても相手を倒そうとしてしまうことである。特に、ある程度力が付いてくるとそれをやるようになるものである。これは誰でも経験する事だから、人の本能なのであろう。大先生は、合気道は倒すことを目的にして技をつかうものではないと戒めておられるが難しいのである。

相手を倒すことを目標に相対稽古で技と体をつかっていると、いろいろとスキが出来る。動作の軌跡が切れたり止まったりしたり、手を振りまわすので手先と腹の結びが切れて手先に力が入らずだらっとしたり、足が居ついたりするのである。外から見ているとそれがよく見える。

合気道は真善美の探究でもあるので、美しくないのは合気道ではないということになるわけで、己の体づかい、技づかいは美しくなければならない。出来なくとも美しくなる方向に向かう努力をしなければならない。
ここで美しいとは、真の武道としての合気道における美しさである。それは力強い美しさであり、隙が無く無駄がない動きと力であると考える。そしてその美しさは、相対の相手をなるほどと納得させる善であり、真になるのである。
前から言っているように、真善美の内、真善は見えにくいのでこの探究は難しいが、美は己で見えるし感得できるので、美を探究していくのがいいと考える。少なくとも相手と接していない初めの構えと投げ終わったり、収めの極めの姿も美しくあるべきだが、これはやろうと思えば誰でもどこでも出来るはずであるから、これから始めればいい。

それでは美の技や美の動きをするためにはどうすればいいかということになる。それは、大先生が言われておられる、宇宙の法則に則ったモノにすることである。陰陽十字や天地の息に合わせたモノである。
しかし、よほど修業を積まないと、相対稽古でこの美の探究は難しいと思う。それではどうするかというと、単独動作でまずそれを見つけ、試すべきだと考える。そしてそれを今度は相対稽古で相手に試してみればいい。このようにして宇宙の法則を見つけ、身に付けていくのが合気道の修業の基本と考える。ということは、基本は単独動作ということになる。相対稽古においても基本は単独動作であり、自分自身との戦いである。自分の動きや動作にスキが無いかどうかを注意し、相手の反応を感じ、無駄が無く自然であるかどうか等を心でチェックするのである。
自分が単独動作で上手く動けるようになれば、相対稽古での動きや技づかいがこれまでと違ってくるはずである。
相対稽古だけに頼っていると、単独で動くことは出来ないだろう。一教や四方投げ等など、相手なしで一人で満足に動くのは出来ないはずである。
単独でも技に合して動けるようにしなければならない。単独で動けるようになれば、相対でもきちっと動けるようになるはずである。

相対稽古では、相手に関係なく、天の御中主の神になったつもりの単独動作で技と体をつかえばいいだろう。一つの形の構えや動作のどの瞬間を切り取っても、大先生や有川先生のように絵になるような、力強い美しさにならなければならないと思う。