【第754回】 合気道はやはり武道

これまで大先生のお話や教えから、合気道はこれまでの武道とは違うということが分かった。これまでの武道は相手・敵を極めたり、倒して勝つことが目標であったわけだが、合気道の稽古の目標は宇宙との一体化であるとか、合気の技は敵を倒すため殲滅するためにつかうのではない等である。
大先生からはこのお話をよくお聞きしたし、『武産合気』『合気神髄』に書かれている。『武産合気』『合気神髄』を読むと誰もが思うと思うが、これは武道書というよりも哲学書であり宗教書であるということである。武道に関しては、実践のための具体的な事がほとんど書かれていないのである。

しかし、合気道はやはり武道であると言える箇所が『合気神髄』にある。これまで何度か見ていたはずだが、意識できていなかったのである。
その箇所は「天地の教えを稽古を通して描きだす」の章(P.173 初版)である。ここには、①「相手が引こうとしたときには、まず相手をして引く心を起こさしめ、引かすべくしむける。技の鍛練ができてくると、相手より先に相手の不足を満足さすべくこちらから相手の隙(すき)、すなわち不満の場所を見出して技をかける。この相手の隙を見出すのが武道である」とある。
隙を見出してその隙に技をかけるとあるように、通常の武道のやり方である。やはり合気道は武道なのである。

②「真の武道は相手を殲滅するだけでなく、その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くなさしめるようにしなければならぬ和合のためにするのが真の武道、すなわち合気道である」とある。
ここには、真の武道の合気道は“相手を殲滅するだけでなく”とあるわけだが、この意味するところは、合気道は相手を殲滅もできなければならないということである。これは典型的な武道の要素であり、やはり合気道は武道でもあるということになる。大先生は、合気道は“真の武道”であるといわれ、相手を殲滅する“武道”と区別されているが、真の武道はやはり武道なのである。

③「無数の槍にとりかこまれ、押し進んできたときといえども、それを一人とみなしてなす。古人のごとく後に柱や樹木を小楯にすることとは異なる。進んで相手の心を小楯に、その真正面に立って突いてくる槍の真中心に、入身転換の法によって無事に、その囲みを破って安全地帯にでる。・・・この道理をよくくんで、体に描き出して稽古するのが肝要で、大勢のときは一人と思い、一人のときは大勢と思い、常に一をもって万にあたるつもりで、隙を与えないようにするように心がけて稽古することも、また肝要なり」とある。
これはまさしく昔からの武道の心構えであろう。多数の槍や剣に取り囲まれたり、攻められても対応できるような稽古を常日頃からしていかなければならないということである。相対稽古で一人の相手と稽古する時も、多数の敵を相手にしていると思いながら技をつかっていかなければならないのである。
合気道は真の武道であるが、武道であるということを再認識すべきであると思う。