【第737回】 素直になる
習い事は何んでも初めは素直な気持ちで、教えれらた通りに行わなければならない。先生のやるよう、先生が教えるように素直に真似するのである。これは違うんじゃないかと疑ったり、この方がいいとばかり、違うようにやれば、先に進むことは出来ないはずである。
教える側は、同じような体験はしており、それを“今”に結び付け、そこから教えているはずだからである。教える側には、初心者が出来ない理由、難しい原因、そしてそれを解決するためにはどうすればいいのかを、自分の体験から知っているはずだからである。
これが武道の世界での「守破離」の「守」の段階である。ここから「破」に進むことになる。習ったことを土台にして、自分の体験や技能による技や動きを新たに加えていくのである。初めに習ったものとは異なってくるので、初めに習った事を破る事になるわけである。
ここまでは誰でもやっている。それ故、合気道の技は人それぞれ違っていて、同じ技をつかう人はいないという事になるわけである。
この後は「離」となるわけだが、これは前2者と違う。前の「守」「破」は見える次元での習いであり、まだ、魄の稽古にあると考える。
「離」は、見えない次元での修業であり、魂の学びへの修行であると考える。
従って、「離」の修行には見えないモノの助けが必要になる。例えば、
- 己の心の声を聞くことである。己の心との対話である。これはいいとか、悪いとか、ここはこうした方がいい等と教えてくれる。己の心と仲良くなると、真の心がその対話に加わって来てくれる。真の心とは魂であり、宇宙の心である。要は自己の心に素直になるという事である。
- 己の体の声を聞く、つまり、己の体の声に素直になるということである。日常生活でも稽古でも、体はいろいろと声を発して何かを伝えようとしている。それが高じたのが痛みであり、ストライキを起こした機能不全である。稽古で技をつかう際は体がいろいろ訴えたり、教えてくれる。特に合気道の動きは繊細で法則性があるので、体の声に素直でないといい技はつかえないし、いい体の動きも出来ない。
段々分かってくるものだが、体は動かすものではなく、体は動くものなのである。体をめちゃくちゃつかうのではなく、体が自ら動いてくれるようにしなければならないのである。それ故、例えば、天地の息に合わせる。体を陰陽十字につかう等でなければならないのである。
- 大先生の教えに素直になる。合気道は大先生の教えであるから、合気道の教えに素直になるともいえる。大先生に直接教えを受けた稽古人は、今はほとんどいないだろうから、その教えは、『武産合気』『合気神髄』にあるのでそれで研究すればいい。
しかし、大先生のその教えは超難解である。ほとんどの稽古人は両著を読み始めはしているようだが、途中で断念しているだろう。何故断念するかというと、超難解なことに加え、大先生の教え、合気道の真の教えを心から身に付けようと思っていない事、更に、大先生の教えを素直に受け入れられないからであると思う。
素直にならなければ『武産合気』『合気神髄』は分からないはずである。
- 天地・自然から素直に学ぶ。己は天地・自然の一部であり、天地と結んでいることが分からなければ、真の合気道の技はつかえないと思う。天地・自然から学ぶためには、己と天地・自然と合気しなければならない。天地の息と己の息を合わせて、体をつかうとか動く事、天地・自然の立場に立って、モノを見たり、考える事である。ここから天地・自然への「愛」が生まれる。そうすれば、天地・自然がこちらに対して「愛」を生んでくれるはずである。だから、お日様やお月様の荘厳さや優しさに感銘したり、花や樹木の美しさに喜びを感じ、感謝の念がおこるのだと思う。
現代人は何事も疑うことから始める。これが科学だといって疑うことを是としている。これは物質文明にある現代病である。この現代病に冒されていては、真の合気道へは進めない。素直になることである。
Sasaki Aikido Institute © 2006-
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