【第721回】 まずは天の浮橋に立たなければならない理由

天の浮橋についてはいろいろ書いてきたが、大先生の教えを書いたり、頭で考えたことを書くなど具体性がなく、頭でっかちのモノだったと思う。
今回は己の肌で感じ、技で感じ、相手の反応など少し具体的に書きたいと思っている。勿論、不十分でまだまだ完全でないことは分かっているが、これまでの事をまとめて書いてみたいと思う。

まず、天の浮橋に立つのが難しい理由を考えてみると、天の浮橋に立たなくとも合気道の稽古は出来るしやっているということである。若い稽古人達は力一杯、気と体でぶつかり合い、投げたり受けたりしている。天の浮橋に立つなど考えもしないだろうし、また、似合わないと言えよう。
それではこのような若者達の稽古は天の浮橋に立たなくてもいいのかということになる。答えは、やはり天の浮橋に立たなくてはならないはずである。

若者のような元気で威勢のいいのもいずれ天の浮橋に立って技を遣うようにしなければならない。いずれというのは、魄の稽古にある程度めどがついたらということである。まずは、魄の稽古で土台となる体をつくらなければならない。そして魄の土台が出来たならば、その魄の土台の上・表に魂を置き魂で己の身体と相手を導くようにするのである。これを魂の学びの稽古という。

この魂の学びの稽古、魄が土台になって魂が上・表になる稽古をするためには、天の浮橋に立たなければならないのである。水火十字の心と体、天にも地にも、そして相手にも偏せず、天とも地とも相手とも結び相和する姿である。
天の浮橋に立った姿になると、

  1. 体がずっしりと重くなる。心の偏たりも無くなり、心体が安定充実する。しかし、心も体も自在に活動できるようになる。
    天の浮橋に立つと、目で見える世界の顕界から、目に見えない世界の幽界に入れるようである。換言すれば、魂(心や念や精神)の稽古をするためには、天の浮橋に立たたなければならないということになろう。
  2. その手は相手の手や体と引っ付いてしまい相手を自在に導くことができるようになる。これで剣をつかえば、相手の剣を引っ付けてしまうことにもなる。
    尚、天の浮橋に立った姿にはいろいろあるだろう。私の場合は前の手は腹の前、後ろの手は前の手と直角にし、後ろの足下に落すであるが、養神館では左右の手を腹の前に置いている。この構えは、大先生のこの教えを受けられた塩田館長が導き出された天の浮橋に立った姿だと考える。また、大先生は祈りの姿も天の浮橋に立った姿であるといわれているのである。
  3. この天の浮橋に立った姿から、阿吽の呼吸で体(腰腹、足、手)が天と地と結び、そしてこの天地の働きで技をつかうことになるのである。力で相手を倒そう極めようとしなくとも、相手自ら浮き上がり、動き、倒れていくようになるのである。つまり、天の浮橋に立つと、これまでの中古の覇道的魄の稽古に陥らないようになるというわけなのである。呼吸法、とりわけ諸手取呼吸法はこの天の浮橋に立ってからでないと腕力に頼らざる得なくなるはずである。また、正面打ち一教も然りである。正面打ち一教の難しい理由がこれでもわかる。
以上、「まずは天の浮橋に立たなければならない理由」のこれまでのものをまとめてみた。今後、その理由はまだまだ増えることが予想される。