【第718回】 魂の学びの合気道へ

魂の学びの合気道へ入って行こうとしているわけだが、それではどのような“稽古をすればいいのかということになる。非常に難しいはずである。恐らくこれまでの稽古とは異質の稽古、いや場合によっては真逆の事をやらなくてはならないはずである。

しかし心配無用であるようだ。何故ならば、それも大先生は教えられておられるからである。
大先生は、「物の技は力少なし、武の魂魄阿吽をもって自己の妙、明らかなる健やかなる力をつくることこそ合気の道である。(合気神髄 P.160)」と教えられておられるのである。
ここにある“合気の道”こそが、魂の学びの真の合気道であると考える。
そこでこの教えを解釈してみる。“物の技は力少なし”とは、これまでの腕力や体力に頼る魄(物質的)の技では大きな力は出せないし、限界があるということであり、真の合気道ではないということであろう。その後の文は、力は妙なる力、明らかな健やかな力でなければならいし、この力をつくるのが真の合気道であり、そのためには“武の魂魄阿吽”でやらなければならないということである。“武”とは、矛を止めることであり、また、宗教ではなく武道上での(魂魄)阿吽であるということだろう。“魂魄阿吽”とは、阿吽の呼吸で、土台となる魄の表に魂を出し、そして阿吽の呼吸で技と体をつかうことであると考える。

魄を土台にしてその上に魂を出し、その魂で技と体をつかう、技と体と息づかいにつては、これまでに何度か書いてきたので詳細しないが、阿吽の呼吸がどのような呼吸で、どのような働きがあるかを研究しなければならないだろう。まだ良くは分からないが、これまで分かったことをまとめることにする。

阿吽の呼吸にはまだまだ摩訶不思議な働きがあるはずだが、後は稽古をしながら見つけ、身につけていけばいいだろう。勿論、魂魄阿吽で技と体をつかい、魂の学びの真の合気道の稽古に於いてである。