【第701回】 合気と合気道

長年合気道を修業しているわけだが、“合気道”や“合気”とは何か等が自分なりに分かったのは最近のことであると思う。合気道を修業しているのに、“合気道”や“合気”がどのようなものであるのかが分からなければ、修業の意味がないわけだから、本来ならば修業の初めに知っておかなければならないはずである。それが半世紀の修行の後、ようやく分かったわけであるから恥ずかしいかぎりである。
要は、“合気道”や“合気”が何たるかを知らずに長年修業を続けていたのである。下手をすれば“合気道”とは違うことをやってしまっていたかもしれないのだ。

これまでの“合気道”と“合気”の私なりの解釈は、“合気道”とは、宇宙との一体化への道であり、“合気”とは宇宙との一体化である。また因みに、“道”とは目指す目標と己を結んだモノ(道)とした。
この解釈でここ数年、合気道の修業をやってきたが、“合気道”や“合気”は、私のこの解釈より複雑であり深く、不十分であることが分かってきたので、“合気道”と“合気”の更なる研究をしなければならなくなったのである。
研究材料は『合気神髄』『武産合気』である。大先生がこれをどのように説明されておられるのかを確認することにする。

大先生は、“合気”について次のように説明されている。
○「合気では、自己の気と、この宇宙と一体となる。(合気神髄p172)」
○「合気というものは、宇宙の気と合気しているのである。(同上)」
合気の解釈はこれまでの自分の解釈と同じだが、これに自己と宇宙が一体化する(合気する)のは気であるということが加わったのである。自己の気と宇宙の気が一体化(合気)するのである。

それ故、大先生は気が大切であると、
○「合気はすべて気によるのであります(合気神髄 P32)」
○「合気は十分気を知らねばならない(合気神髄p88)」
と言われているのである。

尚、宇宙には二つある。一つは183億年前に出來た大宇宙、マクロクスモスであり、二つ目の宇宙は、時間と空間を超越した万有万物である。天地、日月星辰、人間、動植鉱物、海川森山等々である。気によって大宇宙だけでなく、万有万物と合気しなければならないと大先生は次のように言われている。
○「深山幽谷にこもった折には、自然と気が発生してくる。天地の合気、心の合気が、そこにむすばれていく(合気神髄p89)」

大先生はこのように、身近な深山幽谷に入って気を発生して天地に合気し、万有万物と合気していけばいいし、宇宙と合気するために縦横十字の天の浮橋に立たなければならないと次の様に言われている。
○「「ウ」は浮にして縦をなし、「ハ」は橋にして横にして横をなし、二つ結んで十字、ウキハシで縦横をなす。その浮橋にたたなして合気を産み出す(合気真髄P129)」
また、
〇「合気では、自己の気と、この宇宙と一体になる。このやり方を、たえず自己でやるのである。円に十、気の線を描いているのである。合気というものは、宇宙の気と合気しているのである。合気は天の科学である。精神科学の実践を表しているのである。(同上)」

更に、大先生は合気の別な面や働きを説明されている。
○「△○□の気の熟したるを合気と申し、・・・(合気真髄P.51)」
○「合気は宇宙組織の玉のひびきをいうのであります」
○「十字つまり合気である」
つまり、宇宙一体化の合気のためには、これらの要因(側面)が必要であるということであり、合気には多くの要因があるということだと考える。

かっての大先生のお話もそうだったが、『合気神髄』『武産合気』を読んでいて、“合気”や“合気道”が分からず、難しかった原因のひとつに、“合気”と“合気道”が明確に分けてつかわれていなかったことにもあると考える。
“合気”がときに“合気道”の意味につかわれたり、逆に “合気道”が“合気”の意味でつかわれたからである。例えば、
○「合気道には松竹梅という三段の法があります。松は礼、竹は・・・、梅は法の徳。この松竹梅の三つの法則で合気は進んでおります。」
ここでの“合気“は明らかに最初に”合気道“であるはずである。
○「合気の稽古はその主なものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真の大なるものが真剣勝負である」
ここの“合気”は宇宙との一体化とも解釈できるが、“合気道”の方がわかりやすいと思う。
○「相手が木刀を持ってくる。相手を絶対に見ない。合気は相手の目を見たり、手を見たりしてはいかん。自分の心の問題、絶対に見ない。(合気神髄 P119)」
ここも上記と同じである。
○「合気は魄を排するのではなく土台として、魂の世界にふりかえるのである。世の中を守るところの道は、霊魂を守り、魄の世も守り、魂魄調和のとれたアウンの呼吸をもって、すべての生成化育の道を悉く守り、栄の道を愛育することの競争である。」
ここも上記と同じである。
○「円の動きのめぐり合わせが、合気の技であります。技の動きが五体に感応して、おさまるのが円の魂であります。(合気神髄p120)
ここの合気の技は、合気道の技をいっているはずなので、合気道と解釈した方が分かり易いと思う。
等々まだまだあるが、例はこれぐらいにしておく。

それでは、何故、大先生は“合気と合気道”を明確に言われたり、書かなかったのだろうか。私が思うに、大先生にとって、“合気”も“合気道”もほとんど同じであったのではないかと拝察する。それは合気道の形(かた)と技が結局は同じになるということに似ていると思う。

しかし、我々初心者ははじめ、“合気”と“合気道”を明確に区別して修業していくべきであろう。そして“合気”や“合気道”を更に深く研究する必要がある。