大先生がご健在の頃は、合気道をつくられた大先生についていけばよかった。大先生の演武を見、お話を聞き、注意されたり、叱られたりしながら、大先生に少しでも近づくようにすればよかった。大先生は合気道とは何か、どのような役割を担っているのか、合気道の目標は何か、どうすればその目標に近づけるのか等‥を熟知されておられたわけだが、大先生が亡くなられてしまうと、時と共にそれらが不明瞭になってきているように思える。
そこで大先生の原点に帰って、合気道を見直すべきだと考える。
何故ならば、原点に戻れなければ、武術やスポーツのように魄に頼った武道になると思うからである。
大先生は、合気道を禊であり、健康法であり、そして生成化育の道であると言われている。ということは、合気道は、宇宙の営みを守り育てる道である。そのためには、宇宙の活動である一霊四魂三元八力の道にそって進まなければならないと次のようにいわれているのである。
「合気は大なるみそぎであり、大なる健康法であり、大なる生成化育の道である。つまり(宇宙の)営みの世を守り育てるところの至誠に、世界の一つの流れとしてご奉公する道が、武産合気と私は心得ている。つまり一霊四魂三元八力の、宇宙の生命線たる大活動の道にそって進めばよいのです。」(武産合気 P.83)
合気道は、技を練って精進し、宇宙楽園建設への生成化育のお手伝いをしようとするものである。そのために技を練るわけだが、これが容易ではない事は誰もが知っての通りである。
技が上手くつかえず、技が練れないのには原因があるはずである。上記の一霊四魂三元八力の道に沿っていないからである。一霊四魂三元八力の宇宙の営みに従い、その法則に合して技をつかわなければならないということである。
一霊四魂三元八力の内、三元八力はこれまで研究してきたように、分かりやすいし、技に取り入れやすい。三元(気、流、柔、剛)と八力(動、静、解、疑、強、弱、合、分)は体の働きといわれるように、魄の稽古でも取り入れる事が容易だからなのだろう。
さて、一霊四魂三元八力の内の四魂である。尚、一霊は直霊(日)であり、四魂を統理し、また宇宙の創造者であり、宇宙楽園建設を進める最高神とその意志であるとの考えに留める。
四魂とは、奇魂、幸魂、和魂、荒魂、である。四魂にはいろいろな解釈があるし、奇魂、幸魂、和魂、荒魂という漢字が正しく使われているかどうかも正確には分っていないといわれる。大和言葉に漢語が当て字されたからである。しかし、これまで奇魂、幸魂、和魂、荒魂と使われてきたわけだし、不都合もなかったわけで、また奇、幸、和、荒の漢字も意味があり、十分に吟味されて当て字されたと考えていいだろう。
ただし、奇、幸、和、荒は現代語での意味ではなく、大和言葉での意味があるものもあるはずである。それは後に書く。
しかし、この四魂をここでは宗教や学問のために解釈するのではなく、あくまでも合気道の技をつかうためである。この解釈によって、少しでも技が上手くなることが重要なのである。ここではそのために四魂を研究する。
一般的に、奇魂は智、幸魂は愛、和魂は親、荒魂は勇等と解釈されているが、合気道の技の精進のためには、ちょっと高尚すぎ、この次元に行くためにまだやることがあると考える。
そのために研究の原点となるべきものは、やはり大先生の教えでなければならないだろう。
大先生は『武産合気』(P.83)で、三元(△○□、気、流、柔、剛)で技を掛けるが、この技は精神科学によって現わすのだといわれている。
これを体の世界からは、天下水地といい、その働き(用)を魂的に見れば、奇魂、荒魂、幸魂、和魂といわれといるのである。
つまり、
また、
奇魂は、これみな一元の全徳の現れである。
荒魂は、地上の最初のみ働き。
和魂は、和であり和合である。そこにむすぶといって“いくたま”ともいう。(正しい道)
幸魂は、慈愛であって道である。
と言われている。
漢字以前からあった大和言葉を調べると、
クシは、串や櫛に通じ、無関係にあるものを一つに結び付け、新しいものを創造する。神秘的で不思議である等の意味があるという。
アラは、荒い。あらわれる(現れる、表れる)。顕れる。洗う。
ニギ:にぎやか。込み合う。混雑。濁る。和む。馴染む。浸透する。
サチ(サキ):割く。裂く。先。咲き。
大先生の教えと大和言葉から、四魂でどのように技を掛ければいいのか、掛けなければならないのかというと、次のようになるのではないかと考える。