【第680回】 一教が極意技の理由を考える
以前から言って来たように、一教は合気道の極意技であると思っている。大先生も先生方も誰も、一教が合気道の極意技などと言われていないから、これは私の独善ということになるが信じている。
何故、一教を極意技と言うかというと、前からいってきたことは、一教は最初に教わる技であること。そして入門者に一番やりやすい技であること。しかし、技を錬磨してくると、一教が最も難しい技だと分かってくる事、そして最も悩まされる技であることである。
最近、更に一教が極意技と考えた理由を考えたので、それをまとめてみる。
一教、とりわけ正面打ち一教は、基本の法則の塊であると見る。大事な基本法則が入っており、その法則に合してやらないといい技の一教、とりわけ正面打ち一教にならないということである。
具体的にどんな法則かというと、
- 陰陽:手を陰陽に規則的につかわなければならないこと。足も同じように、陰陽で規則的につかわなければならないこと。そして同じ側の手と足を共に、陰陽で規則的につかわなければならないことである。
- 十字:手も足も腰も、縦と横で十字につかわなければならないこと。
- 円の動きの巡り合わせ:振り上げる手を円く縦につかい、腰や脚を支点の横の円、そして更に親指を支点とする手先の円で収める。
- 入身:横の入身 (裏技)と縦の入身(表技)をしなければならない。
尚、縦の入身は正面打ち一教の専売特許のように思える。
- イクムスビの息づかい:イと息を吐いて、クーで息を引くが、引く息には縦と横のモノがある。この横の引く息の重要性が一教ではよく分かる。
- 気の体当たり:合気道の技を掛ける際の基本である。これが上手く出来ないと相手と一体化し、導くことができなくなるから、一教はいい稽古になる。
- 体の体当たり:気の体当たりとセットである。思い切って体を相手にぶつけていくわけだが、突貫小僧にならないように、入身しなければならない。これが上手く出来なければ、入身投げは上手く出来ないはずである。
- 相手との一体化:相手が打ち下ろしてくる手にこちらの手でくっつけてしまい、相手と一体化するのは容易ではない。片手取りで手を取らせて、相手と結んで一体化するよりも難しいものである。相手の打ち下ろしてくる手と触れた瞬間に一体化で出来ればいい。
- 天の浮橋に立つ:合気道で技をつかう際は、天の浮橋に立たなければならないと教えられている。一教でも天の浮橋に立たなければいい技をつかうことは出来ないから、これを身につけなければならない事になる。魂魄も前後左右上下に気持ちも力も隔たらないことである。
- 心(魂)が体(力)の上になり、心で体と技を導く:一教でこれができるようになれば、他の技でも容易にできるようになるはずである。
このためには手先に己の体重が掛かるようにし、これを土台にして心で己の体と相手を導くのである。これも天の浮橋に立つであろう。
この他これまで言ってきている法則、例えば、○体の表をつかう ○腰腹からの力をつかう ○腹、足、手の順に体をつかう ○体より前に息で技をつかう ○息→腹、足、手の順につかって技をかける等である。
このような法則がある一教、取り分け正面打ち一教を身につける事は容易ではないが、一教が出来る程度に他の技もつかえるようになるようである。これも正面打ち一教は極意技である所以であると云っていいだろう。
また、合気道の技は剣の動きと関係があるわけだから、正面打ち一教が上手くできるようになれば、剣もつかえるようになるようである。やはり一教は極意技なのである。
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