【第679回】 鍛練と発見

合気道を稽古している人だけでなく、習い事をしている人は、誰でも少しでも上手になりたいと思って稽古をしているはずである。例え、私は健康法で稽古をしているから、上手くなろう等とは思わないなどと言っても、上手くなれば嬉しいし、上手くならなければ稽古が面白くなくなるはずである。
上手くならなければ、習い事は続かないはずである。

上手くなるための基本は本気度であろう。どれだけ本気で上手くなろうとするかということである。外から見ていても、上手くなる人、それが難しい人はある程度わかるようである。本気度は外からも見えるからである。
また、自分の今のレベルに満足しているようでは、上達はストップしたわけだから、更なる上達はない。

上手くなるには、人より沢山稽古をすることである。人と同じような稽古をしていれば、人と同じようにしかならない。人より上達したければ、例えば、+αの稽古をすることである。 例えば、道場での形稽古で人より上手く技をつかいたければ、道場だけでなく、道場の外でも稽古することである。会社や家から道場までの間の稽古、家での自主稽古等々である。

また、主体的な道場稽古で、上手くなるための稽古をすることである。只、投げたり、抑えたり、受けを取るだけではそれほどの上達はないし、上達は間もなく止まってしまうはずである。
上達するための稽古には二つの大事な事があると考える。
一つは、法則を身につける事である。まず、宇宙の法則を発見し、それを試し、反省し、と試行錯誤して身につけていくのである。上手下手の基準は、如何に多くの法則を身につけているかということになるわけである。陰陽十字など身に着いていなければ、上達は止まってしまうはずである。
二つ目は、力をつける鍛錬である。呼吸力、体力、気力等の力を少しでも強く、そして洗練する鍛錬である。この力をつける鍛錬は修業の最後まで続けなければならないと考えている。呼吸法などを力一杯やり続けることである。

合気道が更に上達するためには、いろいろなモノに教えて貰わなければならない。
初めは、先生や指導者、先輩たちに教えを乞うて習っていくわけだが、それには限界がある。あるところ、ある事情で先生や指導者、先輩たちとお別れしなければならなくなるからである。人に導かれたり、教えを乞うことが出来るのはあるところまでで、その後は己自身が主体となって習わなければならなくなるのである。
それでは誰から、どこから学ぶかと云うと、
まず、合気道に直接関係ない武道(柔術、剣道、居合道等‥)、スポーツ、神楽舞、芸能、バレーダンス等‥を研究し、そこから学ぶのである。歴史を有し、今も存在するモノには多くの大事な教えがあるはずであるし、合気道にも共通したり関係する大事なモノがあるはずであるからである。

次に、自然、宇宙に教えを乞うことである。先生や指導者、先輩にはあるところまでしか教われないが、自然や宇宙からは永遠に教わることが出来る。また、自然、宇宙は無限であるから、教わることはいくらでも有り、尽きる心配はないし、そして公平であるから、こちらのやったこと、やりたい事に純粋に対応してくれるはずである。つまり、一生懸命にやればそれが還ってくるし、そうでなければそれだけのことということである。

更に、己が宇宙と一体となれば、宇宙になった己自身から教わることになるわけである。大先生はこの宇宙との一体化によって動かれ、宇宙の営みと合致し、すべて宇宙の法則に合した動きをされたわけである。従って、大先生は、最後はご自身に習われて上達を続けられておられたものと拝察する次第である。

この最後の段階に辿り着くためにも、まずは、稽古は鍛錬と発見が基本にならなければならないと考える。