【第675回】 法則に体と技をはめ込む

合気道の修業を長年続けてくると、何度も壁に突き当たり、その壁を破りを繰り返すことになるが、修業の年を重ねるほど壁が厚くなり、破れなくなってくるようだ。だから、直近の壁が最厚であったことになるし、これからこれよりもっと厚い壁が出現することになるはずである。
これまでの壁は、先生や先輩などの教えや助言などによって破ることが出来たが、先生や先輩が居られなくなると、後は自分で破っていくしかなくなるからである。いい技をつかうためにどうしたらいいのかは自分で考えなければならなくなるのである。

いい技とは、投げたり抑えたりと相手を殲滅させるための技ではない。合気道は武道であるから、掛けた技で相手は倒れなければ、技が効いたいい技とはならない。相手は倒れるが、その倒すことが目的ではなく、技を掛けた結果、相手が倒れるようにならなければならない。これがいい技ということになると思う。

いい技とは、まず、このように合気道の思想、哲学に則っていなければならない。合気道には宇宙規模の思想や哲学がある。例えば、合気道は真善美の探究であるから、美しくなければいい技ではないことになる。また、美しくなければ真も善もないわけだから相手をその技で納得することができないことにもなる。

美しい技とはどういう技かというと、宇宙の法則に則った技であろう。陰陽十字、円の動きの組み合わせ、天地の息と結んだ等‥の技である。

いい技をつかうためには、呼吸力が必要になる。呼吸力は強ければ強いほどいいから、呼吸力はいつまでも養成していかなければならないことになる。
それ故、呼吸法の稽古はいつも、そしていつまでもやるべきだと考えている。

さて、先ほど「いい技をつかうためにどうしたらいいのかは自分で考えなければならなくなるのである。」と書いた。人によって違うわけだが、合気道の稽古を、10年、20年、30年と続けて行くと、必ずこの壁にぶつかることになるはずである。
そしてこの壁を破るべき道が二つに分かれると見る。一つは、これまでの延長線で、魄の力に頼る稽古を続ける道。もう一つは、これまでの魄の力に頼らないとするこれまでとは別の道である。
これまでの魄の力に頼る稽古を続ける道は容易である。只、これまでと同じように稽古をすればいいからである。しかし、当の本人は決して満足できないはずである。これではなく、何か別なモノがあるはずであると思っているはずだが、それが何なのか、どうすればいいのかが分からないのである。
自分自身がそうだったのでそれがよく分かる。
別の道を行くためには、強力な指導者に教えて貰うか、本人の必死の努力がなければならないと考える。私の場合は、本部道場師範の有川定輝先生に導いて頂いた。もし、先生に導いて頂いていなければ、今頃は体を壊して合気道を引退していたはずである。

有川先生も他の先生や先輩も居られなくなったので、自分自身で精進しなくてはならなくなったわけだが、どうすればいい技がつかえ、上達し、精進できるかということを考えることになる。
稽古の基本は、技の形稽古であるから、技をよりよくしていくことになる。そのために、まず法則を見つけ、その法則を身につけていくことである。
そして、一つの形(四方投げやいる身投げ等)で見つけた法則を、他の形、すべての形でつかえるようにするのである。一教や呼吸法、また、準備運動の柔軟運動などでも応用するのである。
これらの稽古は、他人相手の相対的稽古ではなく、自分との戦いとなる絶対的な稽古になる。相手がいてくれれば、相手に感謝である。それまでの仲間同士の仲良し稽古ではなくなり、仲間が居ていない孤独な稽古になる。

相手がどうしても上手く出来ない場合は、教える事になるが、教えるのは法則である。上手く行かないのは法則違反をしているわけだから、その法則を教えてあげればいい。そうでないと、魄の力の場合は、こうやったら相手は倒れるだろう。だから俺がやったようにやれという教え方になる。
他人に教えるなら法則を教えなければならないと思う。そのためには、自分自身が法則に則った体と技をつかうようにしなければならない。

魄の稽古から、それとは別の道に入るのは容易ではないだろう。指導者がいれば幸いだが、居られなければ自分で探す他ない。形稽古から法則を見つけ
その法則で体と技をつかい、そして今度は、法則に体と技をはめ込んでいく稽古を続けて行けばいいと考えている。
今は、この段階での稽古をしている。これができるようになれば、大先生が言われていたように、技は無限に生まれることになるのだろう。