【第673回】 天の浮橋に立って技をつかう

稽古を続けて行くと、天の浮橋に立たなければ技は効かないことがわかってくる。魄の力(腕力や体力)で技を掛けても限界があり、魄の力より強い何かが必要になってくるからである。
そのためにいろいろな教えがあるわけだが、その一つを大先生は、「天の浮橋に立たねば武は生まれません。」と、先ずは天の浮橋に立つことであるといわれる。
われわれ凡人たちには、天の浮橋ではなく、もう少し分かり易い言葉で、分かり易く説明して頂けると有難いわけだが、よく考えてみると、他の言葉や云い方では難しいというより、不可能に近いという事が分かってくる。もしこの天の浮橋に立つを、現代語で誰にでも分かるように書いたとしたら、400字詰め原稿で数十枚になるのではないだろうか。

ほとんどの日本人ならば、古事記にちっとは触れているだろうから、天の浮橋ということは、神様が空中に浮いていて、天にも地にも自由自在に行き来するイメージを持つだろう。それ故、天の浮橋に立つとか、そこに立って技をつかうというイメージも持つことができるはずである。
天の浮橋という言葉は、最適なものだと思う。

天の浮橋のイメージを持てたら、今度はそれを科学し、研究し、そして試してみなければならない。大先生は、「天の浮橋は、丁度魂魄の正しく整った上に立った姿です。これが十字なのです。これを霊の世界と実在の世界の両方面にも一つにならなければいけない。」(武産合気 P.98)といわれているのである。

相手に技をつかう際、相手に対した時、相手に接したとき、相手を導く時、相手を倒したときと常に天の浮橋に立っていなければならないはずである。
これまで、相手と接する際、例えば、手を掴ませる際、押すでもなく、引くでもなく、上げるでもなく、下げるでもなく、手を掴ませなければならない、と書いた。これが天の浮橋に立っての技づかいであり、これによって相手と一体化し1(自分)+1(相手)=1(自分)となり、自分の一部になった相手を己の意志によって自由に導くことができるわけである。

相手と接する以前とそれ以後も天の浮橋に立って技も体も使わなければならないわけだが、それでは具体的にどうすればいいのかということになる。
先ず、相手と対峙した時の天の浮橋は、「天の浮橋に立った折には、自分の想念を天にも偏せず、地にもつかず、天と地との真中に立って大神様のみ心にむすぶ信念むすびによって進まなければなりません。」「合気道は、自分が天之浮橋に立つ折は、天之御中主神になることである。」(武産合気P.101)といわれる。己を天と地の真中に立って、天と地の気、つまり大神様(天之御中主神)の御心と結び天之御中主神となるのである。相手を投げてやろうとか、やっつけてやろうなどと思っては、天の浮橋に立つことはできずに落ちてしまうわけである。

相手と接する時については既に述べているので、次に、相手を導く時、そして収める時の天の浮橋は、「魂を上に魄を土台にして進むのです。武産合気においていえば、天の浮橋に立たされてゆく。天の浮橋と申すのは、火と水であります。火と水の相交流すること、むすぶこと、むすびあうこと、つまり一元が二元を出し、その二元がむすぶことであります。対照力によって各々二元の働きが出来る。対照力の起こりである。しかし二元の根源は一つであり、火と水も元は一つ。対照力によって天の浮橋が現れる」(武産合気 P.108)

魄の力や体が土台になって、その上に魂(心、精神、念)が上になり、魂が魄を導かなければならない。その具体的なやり方は、これまで片手取りや諸手取の呼吸法で説明した通りである。
ここで注意しなければならないのは、火と水の二元の対照力によって「天の浮橋が現れる」ということである。
天の浮橋が現れたり、その天の浮橋に立つのは、只、願って可能になる事ではない。やるべき事をやらなければならない。

片手取呼吸法は、魂魄と火と水の呼吸によって天の浮橋を現わし、その上に立って技をつかうわけだが、その手を掴ませる前の段階の手も天の浮橋に立ってつかわなければならない。
手をただ単に上げて相手に掴ませるのではなく、上げる手を地(の気)と天(の気)と結び、切れないように、宙を浮くように動かすのである。天の浮橋に立った手となり、この手を持った相手は、天を持ち、地を持ったことになる。実際、この手は非常に軽い、何でもない手のように自然に見えるが、こちらの体重がすべて掛かった重い手であり、離そうと思ってもくっついて離れない手なのである。大先生の手の動きを映像見ればそれが分かるだろう。武芸家だけではなく、芸者、俳優、役者などが大先生に教えを受けたかったのは、このような手や体づかいだったのではないかと思う。

更に大先生は、天の浮橋に立つ重要性に関して、次のようなことも言われている。
「天の浮橋に立たねば武は生まれません。神と万物が愛と熱と光と力によって、同根一体となって業を生むのが武の本義である。・・天の浮橋は、天の武産の合気の土台の発祥であります。身と心に、食い入り、食い込み、食い止めて、各自自分の体全体が、天の浮橋の実在であらねばなりません。」
武を生むとは、完成に向かう生成化育を邪魔したり、反抗するモノやカスを止めたり、排する事ということになろう。稽古では、これを取りと受けに役割分担し、武を生む訓練をし、そしてそれを社会や宇宙においても武を生むようにすべく鍛錬しているということになろう。
また、武を生むためには、神と一体となって、愛と熱と光と力によって技(業)を生むのが本当の武であるといわれるのである。
また更に、「身と心に、食い入り、食い込み、食い止めて、各自自分の体全体が、天の浮橋の実在であらねばなりません」とあるのは、「愛と熱と光と力」を身と心に、食い入り、食い込み、食い止めて、心と体全体が天の浮橋に立たなければならないと言われていると考える。

最後に、大先生は、「自分を開眼させる為にはどうしたらよいのか、それは天の浮橋に立たなければならないのです。」(合気神髄 P.73)と言われているわけだから、何としても天の浮橋に立って技を掛ける稽古をしなければならないことになろう。