合気道を稽古しても、けんかには強くなれないだろう。合気道はけんかに強くなるために教えてはいないからだ。けんかに強くなりたいなら、他のものを習った方がよい。
開祖は強かったとか、お弟子さん達も強かったし、けんかや争いに引けを取ったことがない、などといわれているが、それは時代や社会状況が今とは違っていたからだと考える。
当時の武道は、負ければ消えていくという厳しいものであった。だから、たとえけんかや争いがあったとしても、絶対に勝たなければならなかったのである。そのため、いかなる攻撃にも対処できるよう、考え得るすべての攻撃を想定して、稽古していたであろう。
従って、当時の稽古は勝つために、相手を投げたり抑えたりすることを目的にしていたのであった。
開祖が若い時に学ばれた大東流柔術は、まさにどんな得物で、いかなる攻撃を受けようとも対処できるものであり、開祖もそのように稽古され、天下無敵になられた。
しかし、開祖のすばらしいのは、この勝つための柔術を経て、合気道をけんかや争いのためのものではなく、宇宙との一体化への道、と昇華させたことである。
今でも時々、合気道の相対稽古で、相手をやっつければよいとばかり、合気道と術の稽古を混同している者もいるようである。つまり、相手をやっつけることを目的に、倒そう、抑えようとばかり稽古しているのである。
これを、「用の稽古」と呼ぶことにする。「用」とは、何かのために利用すること、役に立つことである。相手を倒そう、抑えようとすれば、「用の合気道」ということになってしまうだろう。
もちろん、合気道は武道であるから、相対稽古の相手を倒し、抑えることができなければならない。しかし、これは結果であって、目的ではない。つまり、正しい動き、体つかい、息つかいの結果として、相手は倒れるわけであり、形稽古における自分のプロセスが重要となる。
合気道は、宇宙との一体化への道、合気の道、である。用ではなく、道であり、たどり着けるかどうかわからないが、ゴールを目指すものである。用とは、道にくらべて、目先の事、日常的なこと、一時的・相対的目的である、ということができるだろう。
さらに、もう少し合気道の場合の「用」と「道」を対比してみると、次のようになるのではないだろうか。
用 | 道 |
対他人 | 対自分 |
相手に勝つため、負けないため | 自分に勝つ |
目先の事 | 自分の目標に向かい、近づく |
駆け引き、欲望、邪心が出てくる | 理合、宇宙の条理・法則を求める |
間違った方向へ行きやすい | いつも同じ目標に向かっていく |