【第656回】  合気道の剣

合気道を続け、数年たつと剣に興味を持つようになるものだ。木刀での素振りなどやるが、大体は長続きしない。これは、合気道には剣との関わりがあることを感じて、剣を振りはじめるが、その剣と合気道の関係が分からないために、どのような剣の振り方をすればいいのか分からないので、剣の素振りを短期間で止めてしまうことになると考える。

剣の研究をしないと、合気道の更なる上達はないだろう。合気道の技と体づかいの多くは、剣の理合いであるからである。二代目吉祥丸道主は、「合気道の動きは剣の理合であるともいわれているほど、その動きは剣理に則している。故に徒手における合気道の手は、剣そのものであり、常に手刀状に動作している。(合気道技法 P.44)」と言われているのである。
更に二代目吉祥丸道主は、「剣の道に経験のある人が合気道の動きを見ると、必ず剣の動きと同一である、と言われる。なるほど、合気道のどの技をとりあげてみても、剣の理法との一致点を見出すことができる。・・・合気道の技の半分は刀剣を使用の技であることを知っておくべきである。(合気道技法 P.252)」と言われているのである。
剣の研究も合気道の修業にとって如何に大事かわかるだろう。

このために剣を勉強しなければならない。
しかし、合気道家が、ただ剣を振りまわしても剣の理法を学ぶのは難しいはずである。剣道を専門にやられている方が、そのためどれだけ苦労されているかを考えればわかるはずである。合気道には合気道の剣のつかい方がある。

合気道家が剣の理法を身につける唯一の方法は、合気道の技と体を合気道の理合いで使えるようになることであると考える。何故ならば、合気道は、剣の理合いを体に現わしたものであるからである。合気道の理合いを身につけることは、剣の理合いを身につけることになるわけである。形稽古で技をしっかり練ることである。
これを先代の吉祥丸道主は、「植芝翁が修業した剣の道、槍の道が現代の合気道に渾然一体として溶け込んでいることは言を俟たない。故にある一面では、(合気道は)剣の理法を体に現わしたものとまで言われている。」(合気技法P241)と言われているのである。

合気道の理合い、つまり、宇宙の営みに即し、宇宙の法則に則った技と体を身につけていけば、その程度に応じて、剣も自在につかえるようになるのである。しかもまた、体術ができれば、その手に剣をとれば、剣も自在に使いこなせなければならないと、先代の吉祥丸道主は、「合気道の体術ができれば、剣術もできねばならず、杖術も薙刀もそれに応じて、自在に使いこなすことができねばならない。」(同上)と言われているのである。
何故できるかと云うと、「武器は徒手の延長であり、徒手の動きに武器となるべきものを加えたにすぎない。(同上)」からなのである。

合気道の徒手の動きに剣を持てば、合気道の剣になるわけだが、剣に限らず、槍でも杖でも短刀でも、また、棒きれでも徒手の延長としての武器として、理法に則ってつかえるし、使えるようにならなければならないと考える。