【第455回】 苦節10年の「正面打ち一教」

「正面打ち一教」を心から難しいと思ったのは、10年ほど前である。それまでは、「正面打ち一教」など容易にできたし、できるものと思っていたが、それは錯覚であり、無知な思い上がりだったということが分かったのである。

それは、腕力や体力のある相手に通用しなかったり、それほど力がない相手でも、少しがんばられたりすると、「正面打ち一教」が効かなくなるのである。それまで効いたと思っていたのは、受けの相手が受けを取ってくれていたに過ぎず、こちらの技が効いたわけではなかったようである。

何とかしなければならない、とはじめは突貫小僧のように勢いと力でやってみた。だが、気の弱い相手なら仕方なく受けを取ってくれるが、体力や力のある相手には通用しなかったのである。

しかし、有難いことに有川定輝師範から、そのような稽古をしていては駄目だと注意を受けた。そして、やるべきことをやり、それを積み重ねていかなければならないという教えを(無言の内に)受けたのである。

有川先生の技や動き、体づかいを少しでも身につけようと、本部の稽古時間はもちろん、先生の各種の講習会などでも勉強させて頂いた。写真やビデオ撮影の許可も頂いた。

だが、身についてくるのは毎回ほんの少しで、薄皮のように頼りないものであった。それでも、その薄皮が半紙になり、ボール紙になることを信じ、自分を信じて、あきらめずに稽古を続けてきたつもりである。

最も有難かったことは、有川先生が理想的な「正面打ち一教」を示され、その姿を映像に残して下さったことである。有川先生の「正面打ち一教」は武道ではあるが、芸術でもあり、科学でもある。それは、無駄がなく、美しく、理にかなった、非の打ち所がないものなのである。

先生の無言の教えには、手先は腰腹で結び、腰で手をつかう、ナンバで手足を陰陽につかう、体の関節、特に肩の関節を楽につかう、また、諸手取呼吸法ができる程度にしか技はつかえない、呼吸法で呼吸力をつけなければならない等々、大事なことが数多くあった。

10年間にわたって、これらの有川先生の教えを身につけるべく稽古したのだが、他の技はうまくいくようになっても、「正面打ち一教」はどうしてもうまくいかないのである。その間に、残念ながら有川先生は亡くなってしまわれた。あとは自分で考えていかなければならなくなったわけである。

うまくいかない原因を考えてみると、正面面打ちで打ってくる相手の手と触れ合う瞬間に原因があることが分かってきた。その瞬間に、どうしても相手を弾き飛ばそう、押し潰そうとしてしまっていたのだ。

だが、有川先生は、己の手刀を相手の手と合わせなければいけない、といわれていた。しかも、相手と接するところは、その手刀の一点でしかない、ともいわれているのである。(写真)

そこで、相手の打ってくる手を手刀で受けようとしたのだが、相手の手を手刀で間違いなくくっつけるのは不可能である、ということが分かった。相手がまともに打ってくる手と、こちらに迎えに行く手は、正反対の動きをして、正面衝突するわけであるから、うまくいかないのは当然である。

この間、己の足を相手に向かってまっすぐ進めなければならない、という先生の教えを思い出してやってみると、少し「正面打ち一教」らしくなってきた。だが、まだまだ満足できるものではなかった。

あとは、手刀で相手の打ってくる手を確実にくっつけるにはどうすればよいか、ということである。有川先生の手刀は、確かに相手の手とくっついているのである。そこで、原点にもどって考えてみることにした。(上記写真参照)

これは、やはり十字であった。己の手は縦に振り上げるから、今度は手を横につかえばよいわけである。しかし、振り上げた手をただ横に振ったのでは、腰との結びが切れてしまうので、法則違反になり駄目である。また、手は足と同様に、まっすぐつかわなければならないはずである。

その解決法は、手はまっすぐ正中線を振り上げるが、腹を左、右に変換することであった。腹を左、右に変換した際には、手刀が縦から横に動き、相手が降り下ろす手とくっつくのである。

手刀が相手の手とくっつくと、相手と一体化し、後は自由に動くことができるようになる。これで、技ができたことになった。

技ができたかどうかの判断基準は、自分が納得できること、つまり法則違反をしておらず、宇宙の条理に則っている、と思えることである。さらに、技をかけた受けの相手もまた納得、満足することである。この二つが揃えば、その技ができたといってもよいと考える。

さらにもう一つ、技ができた条件として、誰がやっても同じ結果が出ることであろう。自分だけができても、他の人が同じようにやってできなければ、どこかに間違いがあることになる。

だが、これで「正面打ち一教」ができた、技ができた、などというのは、おこがましいことにちがいない。また、「できた」といっても、質の良し悪しや、さらには次元のこともあるだろう。従って、さらに錬磨し続けて、己の「正面打ち一教」のレベルアップをすることであり、また、次の次元の「正面打ち一教」ができるように、稽古しなければならないだろう。

苦節十年の「正面打ち一教」の後には、さらなる苦節十年が待っているようである。