合気道では、それほど多くない形を何年、何十年と繰り返し々々練習していく。スポーツと違って試合はないので、自分が上達しているのかどうか、どれくらい上達しているのか、自分の技がどれくらい上手いか下手か、等の客観的な評価や判断ができず、自分の主観的な判断に委ねられることになる。
しかし、この主観的な判断は容易ではない。人はどうしても自分を甘やかすものであり、自分に甘い点数をつけ、甘い評価を出してしまうからである。後輩を見ても、同程度のレベルの者でも自分が上だと評価しているようだし、レベルの上の者に対しては、自分と同じだろうと評価するようである。
自分より上だと評価するためは、相手のレベルが2段階や3段階高くないと、気がつかないか、評価できないようだ。
入門したての若い頃には、技をかけるにも受けを取るにも、力いっぱいがむしゃらにやるものである。相手をなんとか倒そうと技をかけ、けがせず、息が上がらないように、受け身を取る。ここには、理論はまだない。実践あるのみである。
この段階で、たまに稽古相手に口で理を説いたり説明しているのをみかけるが、これはたいていの場合、自分ができないことを言い訳したり、補充しているようであり、理論というようなものではない。だからだろう、有川師範などは、初心者が稽古中に相手になにかを説明するのを大変嫌われた。
合気道は技の稽古を実践していくが、ただ繰り返し続けていけばよいというものではない。確かに長年稽古を続けていれば、基本の形は身につくし、力もついてくる。初心者や力や体力のあまりないものを倒すのは、容易になるだろう。
しかし、これでは投げられる相手はどこか満足できないし、相手を倒した本人自身も完全には満足できないはずである。その最大の理由は、自分がつかった技に理がないか、理にかなってないからだと考える。
相手も自分も納得できる技とは、理合の技である。理合のない技は、たとえ相手を倒したとしても無謀であり、空虚であり、そして、凶器であるともいえよう。合気道の技は、宇宙の条理・法則に則っていなければならないわけだから、この理合でつかわれなければならないわけである。
ただし、この理合だけが先行しても意味がない。その理合が技をつかう実践になければならないのである。要は、実践した理合は理論で説明でき、理論で説明したことは実践できなければならないのである。これを、開祖は祭政一致といわれているのだと思う。
理論なき実践は無謀、実践なき理論は空虚であるということは、合気道に限ったことではない。昔から、いろいろな著名人が同じような事をいっている。そのいくつかを紹介しよう。