【第866回】 手鏡に写し取る

長年、合気道で技を練ってきたつもりだが、最近、まだまだよく分からない事だらけだと再認識している。つまり、これまでは何も疑問にも駄目だとも思っていなかった事が気になってきたのである。
その最新の事が手の出し方や手の上げ方である。これまでは、相手の攻撃に対して手をただ上げたり掴ませたりしていたが、これでは技にならないことがしみじみとわかったのである。そして法則、これにも法則があるはずだと気づいたのである。
一挙手一投足にも法則があるということである。技と体を陰陽十字や布斗麻邇御霊の息づかいや気でつかう等の法則の他にも法則があるということである。その法則に従わなければ攻撃の相手は納得できないから、体と心で反抗してきて、動けなくなったり返されてしまうことになる。
実は、布斗麻邇御霊から割別れる気があり、一挙手一投足などはその天地の気をつかえばいいのだが、それは複雑になるので別の回にする。

これまで抑えられた手が上がらず苦労していた呼吸法で、この問題の解決に向かった。そのキーワード(鍵)は“手鏡”である。
坐技呼吸法でも片手取り・諸手取呼吸法でも、掴ませた手を相手を写すように手鏡のようにつかうのである。この感覚は次の大先生の教えと一致する。
「合気と申しますと小戸の神業である。こう立ったならば、空の気と真空の気を通じてくるところの宇宙のひびきをことごとく自分の鏡に写し取る。そしてそれを実践する。相手をみるのじゃない。ヒビキによって全部読み取ってしまう。」
勿論、手鏡をつくるのは容易ではない。気(魂)を表でつかわなければならないし、そのためには仙骨をつかい、ウ声の言霊でやらなければならないからである。これらの土台がないといい手鏡がつくれないはずである。

手鏡とは三種の神器の鏡であると実感出来る。手鏡が三種の神器の御鏡なら、仙骨でのウ声の言霊は御玉と実感する。もう一つの神器の御剣は手鏡をつくる手(手先から胸鎖関節)であると思う。これは今後、確認していくことにする。
何故、手鏡が御霊で、ウ声の言霊は御玉、手が御剣の三種の神器であるかということであるが、技をつかう体(身の内)には三種の神器がなければならないし、それをつかわせて貰わなければならないからである。それも大先生は、「十種の神宝も三種の神器もみな、吾人の身の内に与えられてあります。これを生命の動きとして取り出して自由に使わなければなりません。それについて、天の浮橋に立って言霊の妙用たる身内にある赤い血と白い血のたぎりによって、光も熱も力も発してきます。」(合気神髄P.71)と教えておられるのである。また、「合気道はこの古の神器の姿を、みな自分の腹中に胎蔵して修行していかねばならぬことを教えます。」(合気神髄p31)と言われているのである。

手鏡で相手を写し取るように、手鏡を相手の前に差し出すと、相手の対抗する魄の力が消え、相手と一体化でき、相手を導けるようになるのである。この感覚こそが古事記にある次の手力男命の天の岩戸開きである。
「手力男命が岩戸に手を差し入れて戸を開き、同時に、鏡を天照大御神の前に差し出す。この時、すかさず天太玉命が、結界としての注連縄を天照大御神の後方に張った。」
つまり、手力男命が手鏡である。故に、合気道の技をつかう際は、手力男命となって手鏡をつかえということになる。これで多少強く抑えられようが、打たれようが対処できるようになるはずである。
尚、自分の顔を写す手鏡もある。片手取り・諸手取呼吸法でも使うし、内回りの小手返しはこの手鏡である。