【第826回】 天之浮橋の手で技をつかう

「第823回 天之浮橋の手で」で書いてから、天之浮橋の手で技をつかうように努めていたところ、これが天之浮橋の手であろうと実感でき、技もつかえるようになったようなので、書いて置くことにする。

まず、結論を端的に謂えば、技は天之浮橋の手でつかわなければならないということである。手は相手に掴まれようが、単独の手であろうが天之浮橋に立った手でなければならないのである。
手が天之浮橋に立つとは、己の手が天にも地にも隔たらず、しかも、相手がその手を上げようとしても、下ろそうとしても動じない手である。
また、相手と接している己の手の箇所には、常に腹の力や体重が載り、手の接点には、強力な力が働くことになる。

しかし、技を天之浮橋の手でつかうのは容易ではない。その理由は、やるべき事をやらなければならないからである。やるべき事が何なのか、それをどうするのかが分からなければならないからである。自分自身がそうであったからよく分かる。これまで技を上手くつかいたいと思って稽古をしてきたわけだが、技を天之浮橋の手でつかうなど考えもしなかった。

それでは、天之浮橋の手で技をつかうためには、どのような事をしなければならないかということになる。有難いことに、それはこれまでやってきたことである。例えば、手先と腰腹を結び、腰腹で手をつかうこと。また、布斗麻邇御霊とアオウエイの言霊で技と手をつかう。これを大先生は、「合気は天の浮橋に立たされて、布斗麻邇(ふとまに)の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならないのであります」と謂われている。

天之浮橋の手は、魄(肉体的力)と魂(心、精神)が表裏一体になり、腹と結んだ手(魄)とその魄の上にのり、その魄を導く魂が働く手である。
また、天之浮橋の手からは引力が生まれ、相手をねばしてしまい、相手と一体化するのである。引力は対照力であり、対照力から天之浮橋が生まれるわけである。これを大先生は、「対照力によって天の浮橋が現れる」と謂われている。この対照力の手を技につかわなければならないのである。
剣もこの対照力の天之浮橋の手で振るといい。合気の剣を振っているという実感をもてるからである。

天之浮橋に立つのは、身体だけでなく、手もそうしなければならないのである。大先生は、「天地の道理を悟り、顕幽一如、水火の妙体に身心をおき、天地人合気の魂気、すなわち手は宇宙身心一致の働きと化し、上下身囲は熱と光を放つごとく寸隙を作らず、相手をして道の呼吸気勢を与えず、よってもって和し得ることを悟るべし。」(合気神髄 P.170)と教えておられるのである。「手は宇宙身心一致の働きと化し」とは、天の浮橋に立つや布斗麻邇御霊の運化と手が一致して働かなければならないということであると思う。