【第783回】 剛の剛の体をつくる

合気道の修業に終わりはないと云われる。確かにそれを実感する。半世紀以上修業をしているわけだが、まだまだ修行をしなければならないと思っている。
何故、合気道の修業に終わりがないないというのかを考えてみると、ひとつは、錬磨して身に付ける技に完成がないということである。完全無欠な技を会得する事は不可能ということである。出来る事は、その完全に少しでも近づけるようにするだけである。
二つ目は、やるべき事があり、一つ出来たと思えば、次のやるべき事が現われ、それが出来れば次と、再現なく出現することである。例えば、陰陽十字が身に付いたと思えば、布斗麻邇御霊やあおうえいの教えが出て来るのである。更に、合気道は見える顕界の稽古だけでなく、それを土台として、目に見えない幽界・神界の修行に入らなければならない。
更にもう一つの三つ目は、一度身につけたモノを再度練り磨き、改善したり、更なる活用を図らなければならないことである。この循環は恐らく終わりなく続くと思われる。

合気道は、一霊四魂三元八力の大神の営みの姿を見習うものであり、人もまた、一霊四魂三元八力が与えられている。開祖は、「一霊四魂三元八力の理解なくして合気道を稽古しても合気道の本当の力は出てこないだろう。」と言われている。
今回はこの一霊四魂三元八力の内、三元(剛柔流・固柔流)について研究することにする。
まず、「霊は霊、体は体でととのえていかなければならない。みな霊、体をととのえて、気、流、柔、剛とその世界に進んでゆくのである。そしてこの気と流、柔、剛との境を正しくととのえ、そして体得してゆく」と、大先生は教えておられる。つまり、体を気、流、柔、剛でつかえるようにしなければならないという事である。これまでの稽古を振り返ってみると、気・流→、柔→剛の順序でやって来たように思えるし、それは正しいようである。大先生は、「魂と血流が淨まると、肉体が立派な生きたすき通った光の肉体となる。これを創りあげなければならない。次に固体であるが、つまり骨も髄まで立派な土台として創り上げてゆかねばならない。」と最後に固体の剛の稽古をせよと言われておられるからである。

「三元の剛柔流の働きである。気を起して流体素、あらゆる動物の本性である。柔とは、柔体素で、植物の本性又肉体のように柔らかいものである。剛とは、剛体素。大地や岩石のような固いもの、鉱物の本性である。これらの上にあって、気によって活動している。」とある。

さて、今回の主題である剛の剛の体をつくるである。
長年稽古をしてくると、なるべく腕力・体力に頼らずに技をつかうようになってくる。相手を弾き飛ばしたり、ぶつかったりしないように、相手とくっついたり、相手を吸収するために腕力をつかわないようにするのである。大体の稽古相手にはこれで上手くいくのだが、時として腕力むき出しで攻撃や受けを取る相手に当たる時がある。そうするとそれまで控えていた己の腕力、魄力が頭をもたげてくるようになり争いとなる。これは駄目である。
この相手の力を上手く制する事ができない原因は、土台になる魄の力が不十分だという事であると思う。

魂が上になるための土台の魄を鍛えなければならないことになる。以前からいっているように力(魄力)はあればあるほどいいというのはこの事である。この魄力は魂の力の土台であるから用体の体であり、用としてつかうことは厳禁であるが、魂が働くためにも魄の力も強くしなければならない。つまり、魄も終わりなく鍛え続けなければならないことになる。

この魄の力をつくり、強化するためにはどうするかというと、剛の稽古をすることだと思う。鉱物や宝石になったつもりで体と技をつかうのである。
しかし、これは容易ではないはずである。ただやれば、力んだり、固まってしまい、上手く動けないし、技にならないからである。
力一杯、思い切り、鉱石や宝石になったつもりで体と技をつかうためには、陰陽十字や布斗麻邇御霊やあおうえいの宇宙の営み・条理・法則でやることである。これに則って、剛の気持ちで体を剛に使えば剛の体ができ、鉱石や宝石のような剛の気の働きになる。尚、気が難しければ、気持ちや心と置き換えてもいいと思う。

三元は気体・流体・柔体・固体と四つに分けられるが、この四つは、各々更に気体・流体・柔体・固体の働きがあるという。一番分かり易い柔体を人の肉とすれば、肉は柔体だが、血液や気の流れる流体でもあり、柔らかな柔体でもあり、また、年を取って固まったり死んだときのような個体にもなるということである。つまり、気体・流体の柔体、柔体の柔体、固体の柔体である。

従って、剛の体ができたら、更にその剛の体の個体を気体・流体・柔体・固体の働きをするよう、そして最後は、剛と剛の体をつくればいいと考えている。