【第724回】 引く息

入門仕立ての若い頃は一生懸命に稽古をしたが、息づかいなど全然気にせずに稽古をしていた。しかし今思えば或る意味で、無意識の内に息づかいの稽古はいていたのである。それは息が続く稽古であった。同じ程度の仲間達と技を掛け合い、そして受けを取り合いし、休みなく動き続け、どちらかが息が乱れて休めば負けである。これは自主稽古の時によくやったものだが、稽古の時間中もこれをやるのである。先輩や高段者は技を掛けるのは強かったり早かったりしたが、その受けを素早く取っていくと先輩や高段者の方が息が上がってきて、“ちょっと休む“となったのである。これが楽しくて一生懸命に受けを取っていた。そして今日は何人に息を上がらせたかと仲間内で自慢し合っていたものだ。

初心者の内は、息づかいを理合いでやるのは難しいが、このように受け身で覚える事ができるし、受け身で覚えるべきだと思う。
激しく動いて息が乱れなくなるのは、息を自然につかっているということで、それは身に着き、後で役に立つのである。二つ目は、内臓の肺や心臓が丈夫になり、大きくなったり小さくなったりと柔軟になることである。
初心者の時に十分受け身を取らないと、後で息づかいで苦労したり、理合いの呼吸が出来ないことになると思う。因みに、技の稽古に慣れてくると、技は体が主ではなく、息が主となり、体と技をつかうようになるのである。
尚、それまで十分な受け身を取らずに高齢者になって、理の息づかいを身につけようと思うなら、相対稽古の形稽古の受けをしっかり取ることである。技を掛ける息づかいと受けの息づかいは同じなので、技を掛ける時は難しいだろうから、受けの時に身につければいいということなのである。取りあえず、イーと吐いて、クーで吸って、ムーで吐くで体と技をつかえばいい。

合気道の技は体の魄をつかって掛けるが、それが魂で掛けるようにならなければならなくなるのである。合気道は魂の学びなのである。しかし、体の魄から魂に行くためにはいくつかの通らなければならない関門ある。その一つが息(呼吸)なのである。この息づかい(呼吸)を疎かにすれば魂に辿り着けないことになるわけである。

これまで息はイクムスビでやり、そして阿吽の呼吸でやると書いてきた。先ずはイクムスビを身につけることである。これが身に着くと阿吽の呼吸に入れるからである。因みに、イクムスビは顕界(魄)の呼吸であり、阿吽の呼吸は見えない世界、幽界の呼吸であると感得する。
幽界の呼吸での稽古に入ると呼吸はより繊細なモノになってくる。そしてそれを表現する言葉も変わってくる。その典型が“息を引く”である。
顕界のイクムスビではイーと吐いて、クーと吸うと書いてきたが、幽界の呼吸の阿吽の呼吸では、ン―と“息を出し”(息を吐くとも云う)、アーで“息を引く”のである。勿論、大先生は息を吸い込むとか息をこう吸ったら等と息を吸うという言葉はつかっておられるが、これは“息を引く”の説明など補助的につかっておられると考える。

それでは“息を引く”と“息を吸う”はどう違うのかということになろう。大先生の教えと自分の感じでそれを書いてみる。
吸う:
口や肺など体の一部に空気を取り入れる息づかい。
引く:
(イ)皮膚など、体全体に空気を取り入れる息づかい。
これを大先生は、「息を吸い込む折には、ただ引くのではなく全部己の腹中に吸収する。」と言われている。
(ロ)空気だけでなく、気と魂も取り入れる
これを大先生は、「(息を吸い込む折には、ただ引くのではなく全部己の腹中に吸収する。)そして一元の神の気を吐くのである。」(合気神髄P14 )つまり、神の気を吐くわけだから、気も吸い込んでいるわけである。 「自分の息をこう吸ったら、自分の魂が入ってくる。(「合気真髄」P100)つまり、魂も入ってくるということである。

引く息は想像以上に大事な息づかいである。引く息の特徴は、①引く息は自由であること。(「合気真髄」P100)自由であるから、この中で潮の満干の潮満の玉と潮干の玉が働くことができるわけである。②引く息は火である。吐く息が火を消す水に対し、力とエネルギーに満ちた息である。③引く息は地の息でである。盤石で安定性のある息であり、この引く息で地からのエネルギーが出てくるようである。④上記(ロ)にあるように、引く息によって“気“と”魂“が入ってくる。従って、魂の学びをするなら、引く息を大事につかわなければならない事になろう。