【第283回】 体(からだ)の道

合気道は合気の道であり、宇宙と一体となるための武の道といわれている。目標を持ち、その目標に向かい、繋がっている道に乗り、その道を進まなければならない。

技を練磨しながらその道を進むのは、心と体、精神と肉体であり、魂と魄である。合気道は、魂魄の修行ということになる。

心や精神の精進ということは、だれにでも分かるだろう。人間の質や価値は、人の精神の高さで判断されるようなので、人は自分の精神を少しでも高めようとするはずである。

合気道でなくとも、人は何らかの精神的な目標を設定していて、その目標に少しでも近づきたいと願っているし、その目標に近い人を評価しているといえるだろう。

だから、心や精神が道を進むことは、理解できると思うが、体も道を進むのだということには、疑問があるかもしれない。心や精神は死ぬまで衰えないで保持することができるだろうが、体は若いうちは元気溌溂でどんどん大きくも強くも成長しても、年を取ってくると年と共に衰えるものだからである。目標があったとしても、目標まで行きつけないし、近づけないのではないだろうか、と思うかもしれない。

そのために、人は体を心や精神ほど、道として大事に扱わないのかもしれない。そのことは、合気道の稽古での体遣いにも表れているように思える。

つまり、合気の道に体を乗せようとしてないし、また乗ってもいないのである。相手を倒せばよいとばかりに、体をばらばらに遣っていたり、また体を力任せに奴隷のように遣ってしまっている。

合気道では、体は宇宙の法則に則って遣わなければならない。天地の呼吸に合わせてつかう、陰陽でつかう、十字につかう、円くつかう、等などである。これらは、大きな意味での体の道といえるだろう。しかし、これだけでは「体の道」という実感は持てないかもしれない。

体の道の実感を持てるのは、技をつかうに当たっての手の動き、手の軌跡であろう。

技をかけるにあたって、手の道筋、つまり道がある。その道を少しでもずれると、技は効かないものだ。だが、その道筋の上でやれば、相手が誰であろうが、多少力を入れてこようが、同じ結果が出ることになる。例えば、片手取りの呼吸法で、手を道に則って遣えば、諸手取りをやっても、同じ結果が出るということである。

例えば、四方投げなどで、振り上げる手は自分の中心を通らねければならないし、二教裏で相手の手首を決める際には、自分の小指は相手の鼻を切るような軌跡を描かなければならない、と教えられている。これが、手の道である。

かつて、本部の有川定輝師範は、よく「手筋が1センチずれても駄目だ」といわれていた。確かに出した手が、自分の中心や相手の中心、また、手の道を1センチでもずれれば、技は効かないものである。

二代目植芝吉祥丸道主は、「一点、一分一厘間違えないように正確にやらなければならない」と、いわれている。(「植芝盛平と合気道T」(合気ニュース)

宮本武歳が小倉の小笠原家家臣島村十郎左衛門の屋敷に逗留していたとき、青木条右衛門という兵法修行者が訪ねてきた。彼に、仕合いなどして歩くなという戒めの為に、武蔵はその屋敷のあるじの児小姓の頭の上に飯粒を一つのせて、一刀のもとにその飯粒を半分に切るということがあったという。武蔵は、それくらい、正確な太刀筋、手の道を有していたのだろう。

合気道の手の道、体の道も、武蔵の剣のように一分一厘一毛狂いのない道でなければならないはずである。

合気の道の目標"宇宙との一体化"に向かう大道に比べれば細い道だろうが、やはりこれも道である。多分、このような細い道は沢山あるはずである。それらの道も大事にして、進んでいかなければならないだろう。

手も足もであるが、恐らく体全体を、道に則り、道の上で遣わなければならないはずである。体や足は難しいので、先ずは手から道にのるようにするとよいだろう。

参考文献
「真説宮本武蔵」 (司馬遼太郎)
「植芝盛平と合気道T」(合気ニュース)