【第917回】 骨を鍛える

これまで合気道の体をつくるために体を鍛えてきた。稽古を始めてから60年、この論文を書きはじめてからでも20年ほどになる。そこで急に己の体がどのように変わったのかが知りたくなった。技が大分つかえるようになったことから、体もそれなりに鍛えられたとは思っていたが、実際にどのように変わったのかを知りたくなったのである。
そこで手の平を拡げ、指を伸ばして(写真)、この指先を他の手の指で力強く抑えてみると、以前とは違い、潰そうとする力に負けず、指は伸びきったままで頑強に保っているのである。以前なら、広がっている指同士が縮んでくっついてしまったが、指同士の間隔を保っているのである。
また、指先にも力(気)が出て、強靭になっている。これで押されたり、突かれれば相当痛いはずである。

手の平を拡げ、指を伸ばした手
過って数人で話をしていた際、有川先生に手の指(親指か人差し指)で横腹を強く押された経験があったが、鉄棒で押されているように感じた。其の時は、有川先生は空手をやられていたので、指も鍛えられ、このような鉄棒のような力が出たのだろうと思った。
しかし、今になってわかった事は、これは有川先生が空手をやられていたからではなく、合気道の修業によって鉄棒のような指ができたということである。勿論、先生が空手をやられた事は大きな影響を与えているはずだが、基本的な理由は合気道の修業だったはずである。

何故そう言えるかと云うと、自分の手の指も鋼鉄のような感覚になってきたからである。更に、もう一つの理由がある。
入門したての頃、3時の稽古が終わって先輩達数人と話していると大先生が慌ただしく外出先からお戻りになり、道場に入って来られた。多少興奮されておられ、「あの、千葉の馬鹿が!」と言われたので、年配の先輩がどうされたのですかとお聞きすると、内弟子だった千葉先生が、太刀取りの演武で大先生の頭を本当に打ってしまったというのである。大先生の頭を見ると、血も出ていないし、コブも出来ていない。先輩が大先生大丈夫ですかとお聞きすると、大先生は「わしの頭は刀でも切れんよ!」とやや自慢げに話され、みんな安堵したわけだが、今思えば、大先生ご自身も木刀が思い切り当たっても何んともなかったことに満足され、誰かに話そうと多少興奮されたのだろうと思う。

因みに、大先生の頭を木刀で打った千葉先生を私はよく知っている。2015年に亡くなってしまったが、古い武道家の雰囲気の一本気の先生だった。千葉先生から聞いた話の一つに、先生が内弟子の頃、大先生から隙をあればいつでも木刀で打ち込んでこいと言われていたので、或る時、大先生がトイレに入られたとき、扉の前で出て来られたら打ち込もうと待っていたが、大先生は中々出て来られないので、察知されたのだろうと自室に戻って知らんふりをしたという。
大先生を打とうという千葉先生も凄いが、隙があれば打ってもいいと、打たせる大先生も凄いと思う。我々凡人なら、下手すれば死んでしまうか片輪になるだろう。しかし、大先生には打たれはしないし、譬え頭を打たれてもどうということはないという自信があったと拝察する。木刀や刀では切られないという自負である。

これまで手は鋼鉄の棒のようにしてつかわなければならないと書いてきたが、手も頭も骨である。つまるところ、骨を鍛えるという事であり、合気道の修業をしていくと骨が鍛えられるという事である。
骨を鍛えるために、まず、骸骨のように骨で技をつかう稽古をすることである。すべての骨を一つのまとまり、一つの塊としてつかうのである。骨が歪んだり折れたりしないようにつかうのである。
また、骨の部位々々を自在につかうことも必要である。手首、肘、肩、足首、膝、股関節など自由に働けるようにする事である。これが十分にできないとまとまって統一してつかうことはできないのである。

しかし、各骨には筋肉がついているわけだから、骨を鍛えるのは難しいだろう。筋肉が邪魔するからである。
骨で技を掛けるのを剛とすれば、筋肉で掛ける技は柔である。剛の技は力強いが硬い。柔の技は筋肉で頑強ではないが柔軟である。これをつかい分ければ剛と柔の技がつかえるはずである。

さて、筋肉が邪魔して鍛えにくい骨を鍛えるにはどうするかということである。筋肉の邪魔な働きを止めるのである。息を引くと筋肉の邪魔がなくなるのである。具体的に云うと、イクムスビの息づかいで、イーと息を吐いたら、次にクーと息を引く(吸う)と筋肉の働きがなくなり骨だけになるから、その骨を押したり、引いたり、伸ばしたり、曲げたりすれば鍛えられるのである。関節柔軟運動はこれでやればいいが、これでは筋肉が鍛えられないと思うだろう。次のムーで息を吐くと、骨そして筋肉がきたえられるから心配ご無用なのである。