【第867回】 科学は間違うものだ

入門した当時、大先生のお話を伺うことが度々あったが、お話の中に「科学」という言葉をつかわれたことに一寸違和感を覚え、衝撃を受けたことを覚えている。学問の世界での上なら自然に聞き流すことができるわけだが、武道の世界にある合気道、その上ご高齢であった大先生の口からお聞きしたので驚いたのだと思う。
それ以降も稽古を続けてきたわけだが、大先生もお亡くなりになられてお話を聞かないようになったせいか、「科学」という言葉は忘れていた。が、ある時点から、合気道は科学であり、科学的に技と体をつかわなければ上達はないことがわかってきた。『武産合気』『合気神髄』等を読んでいくと、「科学」という言葉が出て来て、「科学」の重要性を教えてくれていることが分かったのである。例えば、「真空の気と、空の気を性と技とに結び合いて、練磨し技の上に科学しながら、神変万化の技を生みだすのであります。」「技はその造化機関を通して科学化されて湧出してくるものである。」等などである。

まず、「科学」とは何かである。合気道にも通用する私の定義は、目的のためにやるべき事を順序よくやることだと考える。目標を定める。やるべき事(要素)を順序を間違えずにやるということであり、その結果、求めている結果が出るということである。これは誰がやろうが、何処で誰とやろうが、そして又、いつの時代(過去、現在、未来)やろうが同じ結果が出るということである。
例えば、腹と手・足を結び、水火の息づかいで、腹を十字、足を陰陽につかえば技が生まれるわけであり、誰がやっても技になるし、やらなければ技は生まれない事になるということである。これが「科学」であると考える。

技の上達、合気道の精進は技の錬磨によるので、そのためには腹を鍛え、腹中心に技と体をつかう事が科学することだと長年考えてやってきた。
しかし、この絶対的と思っていたこの「科学」は間違いであることがわかったのである。腹で力を産み、技をつかっていては、合気道の目標である宇宙との一体化にたどり着けないということが分かったのである。
後でわかってくるのだが、腹を鍛え魄力を養成する上では、科学で腹を鍛えなければならないから、この科学は正しい。
が、今度は腹にかえて仙骨をつかうことが科学になるのである。腹をつかっている内は、魄の力になってしまうし、気や魂が生まれにくいのである。勿論、仙骨から気や魂を産むためには、息や体を科学してつかわなければならない。

つまり、科学は絶対的ではなかったわけである。いうなれば、科学は間違うものなのである。間違うというのは、世間一般で云う間違いではなく、或る条件や環境のもとでは正しいが、それらが変われば間違いになるという事である。例えば、地球は平坦であるから球体であるとなり、太陽が地球を回るが、地球が太陽を回るに始まり、最近では宇宙は膨張と収縮を繰り返すと言われたが、今は、膨張し続けている。光は直進するだったが、重力によって曲がる等などある。

条件、環境、時代などが変わればそれまでの科学が間違いとなるということであるが、間違いは人間側にあるといえよう。真実は変わらないからである。間違う科学は人間に属しているのである。これを「自然を観察したり、実験したりすることは、どんなに繰り返そうと、有限回のことであり、つねに完全であることもできない。つまり科学は、人間の有限で不完全な経験に基づいて、自然界の法則性を導き出していることになる。だから科学は、間違える可能性をいつでも持っている。」と『人類の起源』で篠田謙一氏は言っている。
更に、同書では、「しかし、間違えることがあるからこそ、その間違いを修正したり、それまでは気づかなかったことを明らかにしながら、科学はさらに進歩することができるのである。」とも言っているのである。つまり。合気道でも科学することに間違いは生じるだろうが、それは進歩であるということだということである。合気道を科学して間違いが起これば、大きな飛躍になるという事でもある。実際、今回の腹から仙骨への間違いは大きな収穫につながったようだ。


参考文献 『人類の起源』篠田謙一著 中公新書