【第746回】 剛と柔の体に

道場にはいろいろな人たちが稽古に来ている。大きい人小さい人、太っている人痩せている人、体の硬い人柔らかい人等々とみんな一人として同じ人はいない。
稽古によって大きい人が小さく、小さい人が大きくなることは出来ないと思うが、太っている人が痩せるとか痩せている人が太る可能性はある。この為に稽古に通っている人も数多くいると思う。
また、体の硬い人が体を柔らかにしたいと思って稽古をする人は結構いるように見る。特に、高齢者はそれがメインの稽古目的であろう。それに対して、体の柔らかい人が体を硬くするために稽古に来ている人は少ないようだ。体を硬くするというのは、ここでは体を剛にすることを意味する。

体は剛なだけでは上手く機能しないし技も効かない。また、婦女子や幼児のように柔らかいだけでも技がつかえない。誰も完全な人はいない。剛の体の人は少しでも柔な体になり、剛と柔がバランスが取れるように鍛えなければならないと思う。女性など柔らかい体を有する人は、筋肉をつけ骨格を丈夫にして体を剛に鍛えるのである。

剛を柔に、柔を剛の体に鍛えるのは中々難しいが、合気道では可能である。体を息をつかって鍛え、そして技でつかうのである。
息づかいには、主に次の3つがあると思う:

  1. イクムスビ
  2. 地の呼吸・潮の干満
  3. 阿吽の呼吸
息は基本的に吐いて、吸って、吐くである。この息に合わせて、伸ばしたい箇所や鍛えたい箇所に気と力を流すのである。
最も分かり易いのは、手首から先の手先を鍛えるものである。息を吐きながら手先を伸ばし、伸ばしながら息を思いっ切り引き(吸い)手先・手の平に気と力を前後上下左右充満させると剛の手先が出来ると同時に、その後手先は柔になるのである。つまり、剛と柔とは表裏で鍛えられるという事である。従って、剛に鍛えれば鍛えるほど柔にもなるという事になるのである。
この手先を息で鍛える要領で、体のどこでも剛柔に鍛える事が出来る。腕、上腕、肩、胸、背中、また、足首、もも、太もも、腰、腹、更に首等である。

更に、地の呼吸・潮の干満や阿吽の呼吸をつかえば、ばらばらに鍛えた各部位・関節を結び付け一本化出来るようになる。強靭な一本ができるのである。手先から手首、肘、肩、胸までが一本化し、折れ曲がらない手をつくり、また、足先から、足首、膝、腰、腹まで一本化する。そして手の末端の胸と足の末端の腹が結びつき、そこから大きな気と力が手先・足先に流れるようになるのである。

合気道は宇宙や天地の創造と営みに則った条理を身につけていき、宇宙と一体化する修業をするものだが、そのためには、大神の営みの姿である一霊四魂三元八力の三元八力で体をつくっていかなければならないことになる。三元とは剛柔流である。つまり、体は剛であり柔であり流でなければならないということである。剛だけでも柔だけでも流だけでも不完全ということになるわけである。その証として、三元の剛柔流が備わって初めて八力という引力が働くことになるようだからである。

近年の合気道には誤った先入観が植え付けられている。合気道には力が要らない。それ故、体を剛に鍛える必要はないというものである。
武道である合気道に力が要らないわけがない。力は要るし、剛の体は必要である。
最近分かってきたが、実は、技を掛けて相手を制する際、相手が倒れたり、技が極まるのは腕力の力ではなく、魂(心、念)であるから、確かに力は要らないと言える。しかし、この魂(心、念)の力が出てくるには強力な魄力がなければ出て来ないのである。力を抜いたところからは魂は生まれないという事である。しっかりした土台になる魄の体をつくらなければならないということである。剛の体が土台になるから、剛の体からの魄力の土台がしっかりしていなければ魂が出て来ないのである。

魂が生まれるためには体は柔でなければならないが、先述のように、体を条理で剛に鍛えれば、体はそれに従って柔になるはずであるし、ならなければならない。
剛の体、柔の体をつくるのはそう難しくないと思う。難しいのは剛の体、柔の体のつかい方である。