【第724回】 「出雲と大和」と合気道

先日、「出雲と大和」特別展を見に行って来た。展示品も出雲と大和でその違いが分かるように展示してあり面白かったが、この特別展のパンフレット(写真)にあった次のような文章に興味を持った。「出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。」

合気道に於いても、まず見える世界「顕界」の稽古をし、魄の体をつくり、力をつける。顕界は物質文明であり、競争社会であるから、争いが起こるし、カスが溜まってくる。これを払い浄めなければならなくなる。大和の現実世界や政治の世界でもあり、合気道では魄の力に頼っている稽古の次元である。
そしてこれが出雲神話のヤマタノオロチを退治する話につながったり、合気道はこれらのカスを取り去り、身を浄めるために稽古をし、禊ぎをしているわけである。
合気道での罪穢れは顕界で出てくるもので、この罪穢れを浄める禊ぎが幽界ということになる。従って、合気道はみそぎであるということになるのである。また、これが出雲大社の役割なのである。大和で出た罪穢れを禊祓いするところであるわけである。

このように出雲と大和での表と裏の表裏一体によって古代の日本はバランスよく運営されてきたと思う。もし、どちらか一方しかなかったら、バランスのよくない別の形の日本になっていたと思う。また、日本が他のどの国とも違う元は、ここにあるのではないかと思う。

合気道も顕と幽が一体化しているから意味があるのである。顕(魄)を鍛え、そしてその魄を土台にして、その上に幽(魂)を現わし、幽で顕を導くのである。目に見える顕である体の魄がひ弱では、幽の魂が十分は働かないし、顕の魄だけに頼ってもいい、争いが起こるし、体を壊すことになる。

「出雲と大和」の究極の目標は地上楽園建設であり、その生成化育であったはずであり、今も同じだろう。合気道の大乗の目標も同じである。
「出雲と大和」が身近に感じられたし、合気道の目標を再確認できたし、素晴らしい展示会であったと感謝である。