【第679回】 合気道の修行法の良し悪しは年を取って判る

合気道は難しいと気がつくようになるのは、ある程度年を取って来ないと駄目だろう。私がやっと70才頃になって合気道の本当の難しさに気がついたので、こう思うわけであるが、もっと早く気がつく人もいるだろうし、幾ら年を取っても気がつかない人もいるだろう。

合気道の難しさはいろいろある。入門したての頃は、基本の形(一教や四方投げ等)を覚えたり、受けが難しいと思うだろう。また、数年して、技を掛けても相手が倒れないので合気道は難しいと思うだろう。
しかし、これらのことは真の合気道の難しさではないことが、精進していくうちに判ってくるのである。

合気道の真の難しさの理由を簡単に言えば、二つの相反する事を共にやることと考える。例えば、殲滅と愛、理合いと実践、体と心(魄と魂)の共の錬磨、見える次元と見えない次元の稽古、今現在と過去現在未来がつながる超時間的技の錬磨、今の稽古相手と国や地域を超越した超空間的技の錬磨等である。

合気道は複雑で繊細な武道なのである。基本は武道であるから、矛を止めることができるようにしなければならない。しかし矛を止める方に偏り過ぎると、大先生が言われる「中古の覇道的武道」になってしまう。これは合気道が求めている武道ではない。そうならないために上記の二律相反することを共にやっていかなければならない事になる。
合気道は難しい。だから面白いし、止められないし、増々深みに入って行くのである。

合気道は難しいと思ったところから、本道の合気道へのスタートが始まると言っていいだろう。ここから試行錯誤が始まるのである。
再スタートすると、実力はそれまでより多少衰えるものである。これまで一緒に稽古していた相手にやられてしまうとか、白帯や初心者に力負けしまったりする。後で分かることになるのだが、実は、この弱くなったことが強くなったことなのである。上達の道が変わったのである。つまり、上達するためには、一度弱くなることが必要だということである。弱くなる覚悟と勇気が必要なのである。

また、上達のためには、大先生の教えに従わなければならない事が分かってくる。合気道は技を練って上達していく。技を練るとは、宇宙の法則を見つけ、身につけ、技に取り入れていくことであると思う。
宇宙の法則は宇宙規模であるわけだから、それらを身につけて技にしていくのは時間が掛かる。すべての法則を身につける事は出来ないことは誰にも分っていることである。若い内は、体力や勢いで技つかうので、それに気がつかないし、興味もないはずである。

従って、己の最後の時が最高(量と質)の技を身につけていることになるし、そうしなければならないと思う。己の最後とは、息を引き取るときではなく、技をつかえる最後ということである。ローソクが燃え尽きる時、炎が消える直前に一瞬明るく光る瞬間であろう。
このように合気道の修業は時間が掛かる一生ものである。スポーツの今が大事なのに対して、最後が大事なのである。

このように技も体も宇宙の法則に則った理合いでつくっていくと思って修業をしているわけであるが、これが正しい稽古法であるかどうかの判定もある程度年を取らなければ判らない。
それが正しいやり方であったかどうかは、相対稽古の形稽古で見つけるほかない。培った技と体づかいで、相手が気持ちよく倒れてくれれば、その技と体づかいは法則に則った理合いのつかい方であるし、相手が逆らったり、上手く倒れてくれなければ、法則違反で理に合っていなということが分かり、改善が必要なことを教えてくれるわけである。

ある程度年を取ってくると、自分の修行法だけでなく、仲間や他人の修行法の良し悪しも見えるようになってくる。あれは不味いとか、そこが問題で、その解決のためにはこうしなければならないとか、このような稽古をすればいい等と思うのである。
何故、それが分かるのかというと、簡単である。自分と同じ問題を持っているからであり、また自分がそれらのほとんどの問題を、自分なりに解決してきたからである。
判らなかった事、見えなかったモノが、年を取るに従って判り、見えるようになってくる。年を取るのも楽しいものである。