【第666回】  守破離と変わり続けること

茶道や武道、芸能等で重視されている“守破離”は、千利休の「利休道歌」の中の、「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」を引用したものという。
これを合気道の修業に照らし合わせてみると、守とは、先生の言われることを守り、合気道の技の形をしっかりと身につけていくこと。破とは、先生に教わった事を基にして、形に技を入れていくこと。離とは、自分の考え、主張、個の自分から離れ、宇宙との一体化をしていくことであろうと、(今のところ)考える。

守は真面目にやれば誰でも容易にできる。先生の言う通り、やる通りに真似をし、決まっている形を形通りにやればいいからである。しかし、破はちょっと大変である。破は自分が主体となって、宇宙の営みであり法則である技を見つけ、そして身につけていかなければならないからである。才能と努力に掛かるわけである。また、時間も掛かる。数年で身に着いてしまう守の時とは違い、30年、40年でも難しいだろう。
離はその先にあるわけだが、破も満足に出来ていない状態なので、離で求めるものが何となく分かっているだけで、不明というところである。ただ、破をしっかりとやっていけば、離に入れると確信して修業していくほかないだろう。

合気道の修業においても、守破離で変わっていかなければならないだろう。
いつまでも守の稽古を続けていては、つまらないはずである。人は自分が変わらないほどつまらない、寂しいことはないはずだからである。
大東流合気柔術の故佐川幸義先生は、「稽古とはね、前の自分を捨てて、まったく変わっていくことだ」と云われている。

守破離のような大局的な変わり方に対して局部的に変わることも重要である。
変わらなければならない典型的なモノが合気道の技であろう。何故、合気道の技が変わらなければならないかと云うと、「合気は日々、新しく天の運化とともに古き衣を脱ぎかえ、成長達成向上を続け、研修している」(『合気真髄』と大先生が言われるからである。
天の運化が日々変わっているから、その営みの技もかわらなければならないのである。残念ながら、日々、技がどのように変わっていっているのかは、まだ、分からない。だから、今のところは、基本的な法則を技と体に結び付けて、使おうとしているところである。

技は変わっていかなければならないが、形は変わってはならない。例えば、基本技の一教や四方投げなどの形は変えてはならないということである。誰が見ても、これは合気道の一教であり、四方投げであると見られなければならない。

しかしながら、実は形も変わらなければならないのである。矛盾である。
どういう事かと云えば、変えてはいけない形に、変わる技(陰陽、十字、柔軟、強弱等)を詰め込んでいくのである。そうすれば、形は外見的には伝統的な形であるが、中身がどんどん変わってくるわけである。つまり、変わらないもの、変えてはいけないモノ(形)も変わっていかなければならないということである。
形が極限まで進化し、変わった技で埋め尽くされると、形=(イコール)技、技=形になるわけである。形も変わっていくことにもなる。

大先生は「日に新しく日に新しく進んで向上していかなければなりません。」と云われている」のは、このようなことを言われているように思える。


参考文献 『深淵の色は 佐川幸義伝』津本陽著 実業之日本社刊