【第572回】  理合いで

第560回で「理合いの稽古」を書いたが、今回も「理合い」について書くことにする。
最近、よく時間をつくって後輩たちの見取り稽古をしているが、その感想を一言で言えば、ハラハラしながら見ていると言える。心臓にはあまりよくない。しかし、中にはいい稽古をしている人たちもいるので、そのハラハラを収めてくれるので助かっている。

後輩たちの稽古を見てハラハラさせられるのは何故かと考えると、技のつかい方、体のつかい方、そして息のつかい方が合気道の理に合っていないと見えるからである。
開祖が云われているように、技も体も息も理合いでつかわなければならないわけだが、理に合っていないため技は効かないし、体も上手く動かず、そのまま稽古を続けて行っても、技は効くようになるとも思えないし、体を壊してしまうと思えるからである。
息のつかい方も吸うべきところで吐いているので、相手と一体化することも、真の力を出すこともできないだろう。その上、このような息づかいをしているので、息づかい(呼吸)の大事さに気が付かないようなので、口先だけの浅い息づかいで技を掛けているので、体も十分動かないし、技も効かないことになる。その結果、手先を動かして腕力で相手を投げたり抑えることになるのである。

「理合い」とは、理に逆らわない事である。何に逆らわないのかというと、宇宙の営みであり、宇宙の法則に違反しないということである。
宇宙の法則は無限にあるはずでそれを把握するのは難しいわけではあるが、一つ確実なことは、宇宙の法則は時間や場所に関係なく通用する法則ということである。

例えば、伊邪那岐と伊邪那美が子供をつくる(物を創造する)ための陰陽と十字の法則がある。人も体も陰陽に動き、そして十字にしてものを生み出さなければならないという法則である。

  1. この法則を技でつかう場合は、まず、相対稽古で攻撃をする受けが陽、攻撃を受ける取りが陰、そして受けの攻撃を制して技を掛けるところで取りは陽、受けを取る受けが陰となる。 従って、攻撃を初めに加える受けが受けを取るだけでいいと初めから陰では稽古にはならず、大事なモノが生まれないことになる。しっかり攻撃をし、しっかり受けを取る、また、しっかりと攻撃を受け、しっかりと技を掛けることが大事ということになる。具体的に云えば、しっかり掴ませる、しっかり打たせるなどである。この陰陽が働らなければいいモノ(技)は生まれないのである。
  2. 次の理合いは、陰陽の法則で手足をつかうことである。足は右、左、交互に規則正しく陰、陽につかわなければ合気道の技にはならない。
    手も足と同じく、右、左、交互に規則正しく陰、陽につかわなければならない。
  3. 手も足も十字につかわなければ、相手の力とぶつかってしまい技にならないし、力も出せない。特に、腰を十字につかうことが大事である。
    開祖が云われているように、体も理でつくらなければならないのである。これが合気道は科学であると言われる所以でもあろう。
  4. 息は先ず、先ずはイクムスビ、阿吽の呼吸でやる。この理合いの呼吸が土台となって、次の天地の呼吸、日月の呼吸などの宇宙の呼吸がつかえるようになるはずである。逆に言えば、イクムスビ、阿吽の呼吸ができなければ、理合いの体も技もつかえないし、更なる宇宙の呼吸にも進めないことになるだろう。
これらの法則に逆らわずに体をつかい、息をつかう理合いの稽古をすると、技が己の心体の内にきちっと収まるものである。これは誰がやっても如何なる合気道の形(技)にも通用する法則であるから、理に合っているということになるだろう。

しかし、理合いの稽古をするようになるには時間と意欲、それに忍耐がいるから容易ではないだろう。5年や10年でできる事ではないと思う。
当分は、後輩の稽古をはらはらしながら見るほかないだろう。
しかしながら有難いことに、そのハラハラを収めてくれるものもあるのである。
ハラハラを収めてくれるのは、大体は若くて元気な稽古人である。一生懸命に技を掛け、そして無我夢中で受けを取り合っている稽古人である。お互いが無我夢中で、己の心と体の声を聞き、そして相手の心と体の声を聞きながら、他の事が入る余地がないまでに集中して動きまわっている。素晴らしいと感動させられると同時に、理合いの稽古に結びついているように思えるのである。