【第33回】 やるべきことがある

合気道とは、「大自然の絶対愛を基として、体を△に象り(かたどり)、○を中心に、気により△□の変化と気結び、生結びを身体に現わし、生み出しつつ気魂力を養成し、皆空の心と体を造り出す精妙なる道である。」(合気神髄)と言われているが、この境地に達することはできないまでも、その入り口に辿り着くのさえ容易ではないことであろう。何故なら、そこは我々が生活している日常の世界とは別世界であり、そこへ行くには正道の他に多くの支流、亜流や迷い道があるからである。正道を行かなければ決してその世界には到達できないのである。それに加えてその正道も平坦ではなく、要所々々に種々の関門があり、そこをクリアしないと次に進めないようにできているように思える。

合気道を習いはじめるとき、合気道とは何かをよく分からないで道場に通ってくるのであろうが、恐らく無意識では合気道の目指すものを感じ、惹かれているのだと思う。しかし、ただ漫然と稽古に通っても、そこに行き着くことは出来ないだろう。合気道を始める段階から、やるべきことを一つ一つクリアし、地道に段を進めていかなければならないのである。このやるべきことというのは、言葉で言い表せないほど無限に近くあるだろうが、その幾つかを自分の体験上から挙げてみたいと思う。

まず、入門した当座は、まず、自分の身体をほぐし、身体を柔軟にすることが先決であった。そして、畳に身体を馴染ませることである。当時は稽古前に今のような体操はなかったので、自分で柔軟体操をしたり、受身を取って畳の感触を意識したりした。身体がほぐれてくると畳と身体がはじきあわず、粘り合ってくるものだ。

次は、足がいつかず、自由に動かすことである。はじめはどうしても気持ちと手だけが前に行き、足が居ついてしまうものだ。この問題の解消のために一人での転換、入り身転換をよくやった。また、当時の稽古ではどの師範も始めに、体操が代わりにこれをやっていた。

次に、どんな受身も取れるようにならなければならないと思った。当時は前とび受身だったが、稽古が終わっての自主稽古で残っている先輩に投げてもらった。或る程度できるようになると、仲間同士で投げ合った。毎日、四方投げの前受身を30回取ると決めて取ったものだ。この稽古で受身が出来るようになったが、それ以外に心臓と肺が丈夫になり、また、呼吸と動きが合うようになったので息切れがしなくなった。一技一呼吸で受けを取らないと息があがったり、怪我をしてしまう。受けを取っている間は息を吐き続け、相手が投げ終わったり、技を掛け終わってこちらが立ち上がるときに息を入れるのである。技をかけるときも、一技一呼吸でなければ技が切れてしまうので、呼吸の仕方が大事であるが、この呼吸法は受身で覚えたほうが覚えやすい。

次は関節の鍛錬である。先輩は合気道の腕前や進歩を知るために、よく二教の関節技をかけてくるので、先輩にかけてもらったり、仲間同士で掛け合い、鍛えていった。最後には稽古用短刀を使ったり、左右同時に二教を掛け合ったりして鍛えあった。不思議と二教がある程度耐えられるようになると先輩は試しに来なくなった。何でも自分が必要と思ってやったことは、自分がある程度納得するまでやらなければならないと思う。

その次の課題として集中した稽古は、自分の得意技、四方投げをレベルアップさせることだった。そのため稽古が終わったあと、毎日、四方投げをすることに決め、四方投げを毎日、2年以上は続けた。

自分の得意技をレベルアップするのは大事なことである。というのは、そうすれば他の技もそのレベルに到達しやすいしからである。レベルアップは得意技で、ということがいえるだろう。

この得意技である四方投げの稽古は、2年ほどで行き詰ってしまったので、他の基本技、入り身投げ、一教を集中的にやった。
この頃は有段者になっていたが、有段者は基本技(一教、二教、四方投げ、入り身投げ)は最低でもある程度できなければならないと思ったのである。

また、開祖の目があったこともあって、座技をよくやった。胴衣も袴も膝が一年で抜けてしまい、二重、三重にツギ当てをして稽古をしていた。当時はツギ当てしていない胴衣や袴で稽古していたのは、開祖や師範ぐらいではなかったかと思う。最近は坐技が少なくなったが、開祖が進められたものは極力やる必要があるだろう。

ここまでが合気道入門後5年の間にやってきた幾つかのことであるが、一口にいうと、この時期は合気の身体をつくり固める時期だったのだ。
この後の10年間は、海外に滞在したので、合気道を教えることに稽古の軸が変っていった。

当時のことを思い起こすと、開祖をはじめ、多くの師範や先輩、仲間に恵まれ、いい稽古が出来たことを感謝すると共に、これまでやってきたことが今の自分、合気の身体と精神を作り上げたのだとつくづく思う。稽古事には初めにやるべきことがあって、それをある程度やらないと先に進めないものだとつくづく思うのである。