【第237回】 合気道でわかったとは

合気道は、開祖によれば宇宙との一体化をはかるために、技を練磨して精進する道であるといわれるから、宇宙の営みや法則、つまり真理を見つけ出していかなければならないことになる。そうすると、宇宙の法則は無限にあるだろうから、それを一つ一つ見つけ出していかなければならないし、これでいいということはないだろう。

この宇宙の法則である真理は、合気道の技の中にあるといわれるから、技の練磨によって見つけることができる。技の中から法則を見つけ、それを理論化するのである。うまくいったとき、うまくいかなかったときには、必ず理由がある。それを探し出すのである。うまくいったときは、こうやったからうまくいったのかとか、うまくいかなかったときは、どこに原因があったのか、そして今度はこう試してみようかと、稽古をしてみるのである。

そして、その理論と法則に従って他の技でも、またいろいろな相手ともやってみて、うまくできれば、その宇宙の法則がわかったということができるだろう。

技の練磨の稽古を通して、法則(技要因)を見つけて技を磨いていく他に、『武産合気』『合気真髄』などの開祖の残された言葉を技にできれば、開祖が言われることがわかったことになる。しかし、目で読んで頭や言葉で分かったとしても、技であらわせなければ、合気道として分かったとはいえない。上記の書籍や道歌などの開祖の言葉を読んで、それを技に表して、わかることが大事である。

また、合気道や武道の分野以外からも、多くのことが学べるはずである。宇宙科学、宇宙物理学、音楽、芸術、宗教などなどからである。ちょっと注意して見れば、自分の周りは研究資料で満ちあふれているから、そこから宇宙の法則を見つけることもできるはずである。後は、技で試してみたり技に取り入れていけばよい。

合気道で分かったというのは、宇宙の法則である理が備わっている技で表すことができることであろう。もちろん、どれだけわかったかという程度はあるだろうが、〇(ゼロ)ではないということが大事である。後は稽古でレベルアップすればよい。稽古をいくらやっても、〇(ゼロ)ではレベルアップはできないが、1以上なら稽古すればレベルアップするはずである。それを、道にのったというのだろう。そこに、稽古を続けていく意味がある。

しかし、実は、これでその宇宙の法則が本当がわかったとは言えないのである。自分だけ分かっても、十分ではないのである。なぜならば、その理論は自分だけにしか当てはまらず、自分にしかできないのかも知れないからである。体力があったり、力が強かったりすると、多少無理に技を掛けてもできてしまい、それが正しいと思いがちである。だが、相手を投げ飛ばしたり、極めたりできるからわかったというものではない。

正しいことは、誰がやっても同じ結果をもたらすはずである。自分ができたら他人もできなければならない。自分ができて、他人ができないのは、真理だとはいえない。つまり、その理論が自分の弟子や稽古仲間や他人がおなじようにできなければ、宇宙の法則の真理ではないということになるだろう。もし同じ結果をもたらせば、正しいといってよいだろう。それが、科学である。同じことをすれば、誰がやっても同じ結果がでるのである。開祖も「科学する」という言葉を使われていたが、そういう意味で使われていたのではないかと思う。

合気道で「わかった」とは、自分で編み出したものであれ、発見したものであれ、開祖のものであれ、その理論を自分だけでなく、他人も技で表すことができるということであろう。