【第175回】 失敗すること、出来ないことを恐れない

合気道は技を練磨しながら精進していく道である。相対稽古では、取りと受けが技を掛け合って技の練磨をするが、どうしても相手を制しようとして、本来の稽古の目的を忘れてしまう。自分が相手を制そうとすれば、相手はそうされまいとするので、技は効かなくなり、高じて争いになってしまうことにもなる。若いうちはこの試練を通して成長するのだから、この時期も意義があるのだろう。しかし、いつまでもこのような稽古をしていては、目指す目標に近づけないことになる。

技を練磨し続けていくのは、そう容易ではない。やるべきことが決められているわけではないし、決められた方法があるわけでもない。指導者によっても違う。つまりは、練磨する本人次第ということになる。

本人がどのように稽古をするかは、様々だろう。初心者と、長年稽古を続けている人とも異なるだろう。運動不足解消が目的の人もいるだろうし、合気の道を追求するなど哲学や思想を追求しようとする人もいるだろう。しかし、如何なる目的をもって入門したり、稽古を続けていても、共通することは、技が上手くなりたい、合気道が上達したいと思っていることであろう。技が上手く遣えれば、誰でもうれしいし、もっと上手くなりたいと思って、稽古を続けるはずである。

しかし、技はなかなか上手く遣えないし、相手に掛けても効かないものである。技を掛けても、相手はこちらが掛けようとする技が何かを知って受けを取るのだから、倒れたくないと思えば、多少のことでは倒れてくれないものだ。こちらが初心者で、技の型もまだよく出来ない期間は、受けがこちらを導いてくれるだろうが、上級者になって技の型も覚え、力がついてくると、無意識のうちにこちらの技が上手く掛からないように力を入れたり、ずらしたりして、抵抗を加えようとするものだ。

こちらが技を掛けても、相手の受けが頑張ると、こちらも更に力を入れて相手を倒そう崩そうとする。そうすると、相手は更に力をいれて、技がかからないようにしてくる。これが、争いである。初心者の頃は、誰でも頻繁に経験することだろう。

誰でも争いに負けるのは嫌なはずなので、争いに負けないよう、力負けしないように、筋力や馬力をつけようとするだろう。やはり、技をかけるには、ある程度の力がいるということを実感するはずである。「合気道に力は要らない」ということは、力をつけるなということではなく、力はあっても力に頼っては駄目だということで、力はあった方がいいことが分かってくる。力も技のうちとも言われるように、技が相手にブロックされれば、技が上手くできないうちは、力を遣うほかにないだろう。

このパワーに依存する時期は、長く続く。しかし、パワーだけでは技は効かないことが、だんだん分かってくるはずだ。技が効かないのは、相手のせいではなく、自分の技の遣い方、体の遣い方などがまずいこと、また、合気の体がまだ十分にできていないことが分かってくるだろう。自分がまだまだだというのを実感させてくれ、ますます精進しなければならないと思わせてくれるのが、道場での相対稽古での失敗であり、技が効かないことである。

長年合気道の稽古をしていると、初心者のやっていることが明らかに見えてくるものだ。自分もかつてはこんなふうにやっていたなと度々思う。技を技として、つまり理合の技は、よほど注意し、意識して練磨しなければ、身につくものでない。ただ繰り返して練習していれば、上達するというものでもない。極端にいえば、理合の技は初めからできるものではないから、それが出来るように意識して稽古をしなければならない。

技を身につけ、上達させるためには、自分が出来ていないということに気付かなければならない。そして、稽古の原点にもどらなければならない。自分は出来ると思っていれば、それまでで、先には進めないだろうし、いずれ別の道に行くことになるかも知れない。

原点に帰って、自分はまだまだだからこれから精進しなければならないという気持になれば、自分も相手もよく見えるようになり、技を掛けたときの相手の反応もよく分かるはずだ。しかし、技を掛けてもいつも上手くいくわけがないはずなので、その失敗したこと出来なかったことを真摯に受け止め、その失敗の原因、その解決法を考え、それを道場で試してみればよい。すぐ上手く行く場合もあるだろうが、数カ月かかる場合もあるし、数年かかる場合、ものによっては一生解決できそうないものもあるはずである。

自分では解決した、出来たと思っても、他のタイプの相手には掛からないこともあり、再度その問題解決をしなければならないことも多々あるものだ。そして、一つのこと(要因)が出来るようになっても、まだまだその技が出来ていないということに気づくものだ。一つの技には、解決しなければ因子(ファクター)が無数にあるのだ。

この因子を気付かせてくれるのは、相対稽古の相手である。人が違えば、気付かせてくれる因子も違う。だから、いろいろなタイプの人、いろいろ違った人と稽古をするのがよいということになる。違った人と稽古をすれば、上手くいかないことも多いだろうが、それは新しい因子を見つけるよい機会である。失敗することや出来ないことを恐れないで、挑戦していかなければならない。