【第929回】 合気三昧を楽しむ

「第902回 ようやく合気三昧に」でようやく合気道三昧の生き方ができるようになったと書いた。あれから一年も経っていないが大いに変わってきている。今では合気三昧の日々を送っているし、すべては合気道が中心である。合気道のためになることはするが、合気道に関係しないことには興味が持てない。これまでのしがらみも合気道のためにならなければ切り捨てていく。義理を欠くがこちらにも都合があるので勘弁してもらう事にしている。
合気道の教えから学ぶ事は世俗の事より意味があると思うからである。意味があるとはより歓喜できるし感動でき、納得できるということである。人はこの歓喜、感動、納得のために生きているように思うのである。

合気道の歓喜、感動、納得はこれまで主に技稽古で会得していたわけであるが、最近では日常生活でも得られるようになってきたし、得ようとするようになったのである。
合気道での稽古の次元が変わった事によって、日常生活の次元も変わったからだと考えている。合気道でのそれまでの顕界での稽古から、ようやく顕界を抜け出して幽界の稽古の次元に入れたからである。目に見える世界の顕界から目に見えない世界の幽界に入ったという事である。
顕界の稽古ではモノ(魄の力)に頼ったり左右される稽古、強い弱いの相対稽古をしていたわけだが、幽界の稽古に入れる気や魂の力の技づかいをするようになり、また相手と比較するのでは自分自身の稽古をするようになる、所謂、絶対的な稽古をするようになるのである。これで合気三昧に耽れるのである。

道場を離れての日常生活も稽古と同じように変わってくるのである。モノには興味はなくなってくる。他人との比較をしなくなる。どんなに金持だろうが、有名人であろうが、その金や名には興味がない。興味があるのはその人の人間性である。所謂、心である。
心は金持ちも貧乏人のない。大人も子供も関係ない。子供だからと言って大人より劣っているものではない。同じ土俵にあり隠すことはできないのである。心は人だけが持っているわけではなく、動物も植物もすべての生物が持っている事も分かってくる。だから、他人とは心で話すようにしているし、植物にも挨拶したり話しかけている。最近は無生物でも形があり、日々お世話になっているモノにも挨拶したり、お礼を言ったりしている。例えば、朝起きれば、寝ていた部屋、居間、トイレ、洗面所などには朝の挨拶をし、今日一日お世話になりますと言う。
朝の洗面では顔を洗い、目、鼻、口、耳をすすぎ、頭をマッサージして今日もよろしくと挨拶をする。肉体的にすっきりするし、気持ちもいいからみんなの気持ちもいいはずである。これで仲良くなれるからみんな協力してくれることになる。

合気道のお蔭で、合気三昧で生きるようになったということであるが、ここに合気道の重要な教えと合気道の更なる素晴らしさがあることがわかってきたのである。次回はそれを書いてみたいと思う。