【第927回】 形はないが形はある

これまで見てきたように合気道の教えには多くのパラドックスがある。一つの教えに反する教えがあることである。その典型的な例は合気道には力が要らないであるが、実際には力は要るし有ればあるほどいい。力は要らないと思って稽古をしてしまえば稽古にならない。力が要らないの意味は、力(腕力)をつかわないように技をつかいなさいということなのである。力がない者に力を抜くことはできないのである。そのためにも力をつけなければならないから力は要るのである。容易ではない。体と仲よくし、全身を自覚して駆使しなければならないし、そして気がつかえるようにならなければならない。

最近、合気道のパラドックスで特に気になるものがあるのでそれを取り上げることにする。それは「合気道は形がない」という教えである。このことだけを信じ、形を無視したり、軽視する稽古人が多くいるのではないかという事である。今回、この「合気道は形はない」の教えの真の意味、つまりパラドックスを解明したいと思う。

「合気道は形はない」も合気道の教えのパラドックスであり、この「合気道は形はない」の反語、裏面があるのである。大先生は「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである。」「魄の世界は有形であります。武の極意は形はない」と教えておられるのである。どういうことかというと、「形はない」のは魂の学び、魂の学びの次元でのことであるということである。合気道の極意は形はないということであり、形がある内は極意が得られないということである。
しかしながら「魄の世界は有形であります」ともあるように、魄の次元の技の稽古では形があるし、なければならないと云われているのである。
つまり、形がない極意技がつかえ、魂の学びができるために、魄の次元の稽古で形をしっかり身に着けなければならないということである。

それでは「形」とは何かということになる。次のような形があるだろう。

いい形は人間だけがつくるのではなく、天地宇宙とつくるのだと考える。天地宇宙の営みの形に合するのである。
合気道の技は宇宙の営み・法則を形にしたものであるから、宇宙の法則に則った形をつかうようにしなければならない。
形はあるから、その形に己をはめ込んでいかなければならないということである。