【第859回】 魂への一歩

肉体的な魄の稽古から、息、そして気による技づかいの稽古が出来るようになり、いよいよ魂による魂の稽古に入るべく試行錯誤している。「合気道は魂の学びである」が合気道修業のモットーであるから、何とかしなければならない。
お陰で少しずつ魂の謎が解けてきているようだ。今回は、本日までに分かった事をまとめておきたいと思う。まだまだ不完全であるから、これを土台にして更に修業を積み重ねていかなければならないと思っている。

最新の魂についての研究は「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全くない。このまま神様におまかせなのです。剣を持って立つ時ばかりでなく、常に生きる死ぬるの執着を断ち、神様におまかせの心でなければならない。」(武産合気 P.36)である。
ここに魂の秘密があると見たのである。魂の秘密とは、魂とは何か、魂はどんな働きをするのかということである。

この大先生の教えの「神様におまかせなのです」の神こそ魂であると思うのである。息や気、そして布斗麻邇御霊とアオウエイの言霊で技をつかっていくと、己が意識して動かさなくても手や足、体が自然に動いてくれるようになってきた。この時の動きは無駄なく、自然で美しく、そして安定し、強力で、そして相手は抵抗せず、一体化してくる。自分を超えた何ものかが働いているとしか思えないのである。これまでこれは何者なのかと考えてきたが、これこそが上記で大先生が云われる神様であり、それがでなかろうかと思うようになったのである。
更に大先生は「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全くない。」と言われているわけだから、己で敵からの攻撃に備えたり、生死を心配する必要はない、神様、魂がやってくれるからお任せすればいいことになる。
そして、「剣を持って立つ時ばかりでなく、常に生きる死ぬるの執着を断ち、神様におまかせの心でなければならない。」とも言われているから、武道の稽古だけでなく、日常生活に於いても神様、魂にお任せしなさいということである。寝ていても寝首を書かれないのは神様、魂の働きである。

この教えを道場の相対稽古で具体的にどうすればいいのかというと、まず、この教えの「神様」を「魂」に換え、「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全くない。このままにおまかせなのです。剣を持って立つ時ばかりでなく、常に生きる死ぬるの執着を断ち、魂におまかせの心でなければならない。」とし、次に、「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全くない」かあら、相対稽古の相手がどんな技をつかってこようが、技が効く効かないに執着しないで「魂」にお任せするのである。

これで魂に一歩近づいたような気がする。