【第846回】 相手にも上達してもらう

過っての武道は相手に負けないため、相手の攻撃を制し、殲滅するために稽古をしていたと云えよう。これを合気道では魄の武道、魄の稽古という。
魄の稽古から脱却しなければならないと、合気道開祖の植芝盛平大先生は教えておられるが、魄の稽古からの脱却は容易ではないことは承知の通りである。
それではどうすれば魄の稽古から脱出することができるのかを考えなければならないだろう。大先生は勿論、それを知り尽くし、そんな事を気にする必要などなかっただろうが、我々稽古人はそれに挑戦し、試行錯誤し、反省し、それを見つけていく外ないだろう。自分を信じてやっていくしかない。

最近、その方法のひとつを見つけた。
60年近く稽古を続けていると、これまで教わっていた先生は亡くなられ、先輩たちも道場に見えなくなる。気がついてみれば、自分が長老になってしまっている。周りは後輩だらけになる。
振りかえってみると、これまでは後輩を投げたり、抑えて満足し、先輩面をしていたように思う。最近、これは間違いで、こんな稽古をしていては、魄の稽古からの脱却を難しいし、自分が精進できないだけでなく、合気道にとっても、世のためにもよくないと思うようになった。

そして出てきた答えは、相手にも上達してもらうということである。自分の知っている事、出来ることを後輩仲間に伝えることである。伝えるのは“法則”である。宇宙の法則であるから、時間や場所、また相手に関係なく通用する。勿論、大先生が教えて下さっている法則である。例えば、手や足を右左陰陽につかう、手も足も十字につかう等である。但し、誤った事を教えないように細心の注意を払わなければならないと用心している。

後輩の中にいる自分が上達するためには、相手にも上達してもらうことである。相手が上達して自分も上達していくのである。
その好例がある。それは、「無刀」を追求する中条流の富田勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたことである。想像するに、勢源は小次郎に小太刀から太刀、そして大太刀と段々と長い剣を持たせ、自分の練習を厳しくしながら稽古をしたと考える。勢源は梅津某に仕合を挑まれ、皮を巻いた一尺二、三寸の薪を得物とし、一撃で倒したほどの腕前であったという。勿論、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」を会得したと伝えられている。勢源と小次郎が共に上達したわけである。

稽古相手や周りの後輩に法則(技)を教えると、その内にそれを身につけることになる。上達することになる。そうなると教えた本人も次の段階に進まなければならなくなる。さもなければ追いつかれたり、追い越されてしまうことになる。先輩の意地もある。教わる方の進歩上達は教える方より早いので、2,3倍の努力が必要になる。特に、若い人は教えたことをすぐに身につけるので大変である。しかし、このお陰で進歩上達できるわけだから有りがたい。

お互いに磨き合う事が重要なのである。自分だけが上手くなったとしても、それは長い目で見れば、只、一時の事。よりよいモノをつくりあげていくためには、一人では難しい。合気道の目的は、地上楽園建設への生成化育のお手伝いである。相手にも上達して貰う合気道の技の錬磨は、一時の事ではなく、人から人へと繋がる、未来に繋がる永遠の事であり、過去現在未来(過現未)を超越する事なのである。超人的なのである。超人的とは自分を超えることである。

後藤新平は「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とす」と言った。
これは合気道の場合、仕事は技であり、人を遺すとは人(合気道家)に技を遺すということと考えればいいだろう。この人を遺すが、相手に上達してもらうということだと考える。

相手にも上達してもらうことによって、強い弱いの競争、争い、戦いから共存共栄へ、そして人は皆、家族、一家になる。地上楽園に近づくことになるだろう。
これからますます、相手にも上達してもらうようにしていきたいと思っている。